さそり座の歌 1061

 うろ覚えで恐縮だが、ある女優が自分のブログで「子供を持って初めて、本当の大人の親になれた気がします」というようなことを書いたら、それに抗議の声がたくさん届いたというのだ。

 「子供を持たない人間はだめなのか?」「結婚してないのはもっとだめなのか」といった声がたくさんあり、それに対して「そういう事をいう方がおかしい」という反論も少しは出たそうだ。

 いわゆるネットでの炎上という例を時折見る。その正否はともかく、抗議が殺到することを炎上というようだ。見えないところから、気に入らない声に抗議をする野次馬がパソコンの前にたくさんいるという事だろう。

 最近「忖度」という言葉が話題になった。証拠を残さないように、総理の意向に沿った解決策を講じることを「忖度」したというようだ。

 それはともかく、この女優がブログに記入する時、「子供が欲しくても持てない人のこと」「結婚したくても、そのチャンスに恵まれなかった人」のことを、忖度しなければならないのだろうか?思いを人に押し付けるものではなく、自分自身の内面の気持ちを表現するだけの事は、認められてもいいのではないだろうか。

 私も最近、音楽院で出している新聞に、孫が仏壇に置手紙をしたことを書いた。それに対し、誰からも抗議をいただいてはいないが、その女優の例を思うと、少しだけ何かが引っかかる。

 周りを見ると、結婚して居ない方、結婚していても、子供を持っていない方が相当多い。そんな方々は、ご自分の現状を認めて、皆さん広い心で子供や孫の話を明るく受け止めてくれているのだろうか?

 同じようなケースと言えるかどうか自信はないが、例えば、「マラソンを走る喜び」、「山登りの喜び」を目にすることがある。それに対し、私の不自由な足ではそれは全く可能性がないことなので、妬んだり悔しく思ったりするだろうか。たぶんそういう気持ちは全くない。そういう記事を書くとき、障害者のことを忖度するべきだとは、少しも思わない。

 高級料亭で、ほんのちょっとしか箸をつけない豪華な料理を前にする政治家が、餓死して行く難民のことを忖度するだろうか?そんな奇特な政治家がいれば、この世はもっと幸せが満ちることだろう。

 周りとの摩擦を少なくするために、忖度する気持ちも大事だとは思うが、それにがんじがらめになると、何も言えなくなりそうだ。

さそり座の歌 1062
    

ギター連盟40周年記念
祝賀会にあたり
  竹内幸一

窓から、蝉時雨が激しく降ってきます。この暑さの中で、蝉たちは限りある命の日々を大切にいつくしんでいます。この命の輝きの蝉時雨に励まされながら、少し、連盟の40年を振り返ってみることにしました。

私は現在68歳。その中の40年ですから、私の人生の半分以上は、連盟とかかわってきたことになります。40周年の記念誌をめくりながら、皆さんの若々しい顔に、長い時間の経過を味わっています。そして、いろいろと思い出を残してくださった、今はもう亡き方のことも、懐かしく思い出しています。

6→8→10→8→10→10→12→

11→13→13。この数字、皆さん、何だかわかりますか?そう、出演サークル数の変動の様子です。定演の31回目から40回目までを並べてみました。なんとこの10年で、6サークルから13サークルへと、倍増しているのです。

 「倍増」なんてことは簡単に口にできることではありません。何を夢みたいなことを言っているんだと、笑われるようなことです。しかし、皆さんのおかげで、何と別府ギターサークル連盟は、この10年でそれを成し遂げていたのです。この40周年のお祝いの会に、先ずその成果を喜び合いたいと思います。

 ギターを愛する方が増えることは、ギターを仕事にしています私にとりまして、何よりの喜びです。そして、ギターを学ぶだけでなく、時間的などの負担も増える合奏団へ参加して下さることは、なおさらありがたいことです。そのご協力で、連盟は成り立っています。ギターへの情熱がなければ、なかなか両立は出来ないことでしょう。

それに加えまして、指導者が増えたことも特筆するべきことです。第31回定演では、サークルを率いる指導者が、わずか2名でした。それが10年たった今、指導者がなんと5名に増えているのです。これが連盟発展の大きな支えになっていることは明白です。

 それぞれの指導者が支持基盤を固め、毎年の連盟定演を目指してくれることで、100名を超えるゆるぎない別府ギターサークル連盟になりました。これは、九州の各地の先生方からも驚異の目で見られている成果です。

 少し個人的なことになりますが、私のところでギターを学んでくださっている方の中で、もう34年余りになる方が数名います。本当にギターを好きになってくれて、ギターに生涯をささげてくれていると言っても過言ではないほどです。

 それはとても嬉しいことですが、その熱い気持ちが感じられるだけに、厳しい時間の経過をさびしく味わうことも多くなりました。

毎年同じように集まってくれる合奏団の顔ぶれを見ながら、この方々と、いつまでもいつまでも合奏が続けられたらどんなにいいだろうと切に思います。どの方も、みんな、好きになってくれたギターを来年も再来年も続けてもらえたらいいなと強く願っています。

しかし、痛み止めを飲みながら、また補聴器をつけながら、痛む手をかばいながら頑張ってくれていた方も、泣く泣く力尽きてしまうこともあります。「ギターに戻りたい。今度の新薬が効いてくれることに希望を賭けています」というメールをいただいた方もおります。

40年という時間が過ぎることは、ある意味残酷なことでもあります。しかし、生涯をギターに打ち込んでくれた方と出会えたことは、私の何よりの喜びです。どんなにお礼を言っても言い足りません。幸せなお付き合いをさせていただき、感謝するばかりです。長い間一緒に合奏してきた仲間もきっとそうでしょう。それが連盟の大きな存在価値でもあります。

45周年、50周年…新しい仲間が加わり、新しい指導者が増えて、この連盟の伝統が続いていく事を願いつつ、このお祝いの会が出来たことを皆さんと共に喜びあいたいと思います。

さそり座の歌 1060

 すぐ近くに不二家のペコちゃんの店があった。孫たちが来た時、店内でアイスクリームを食べたりして時折利用していた。その店が最近閉店した。春休みに遊びに来た孫が、それがわかった時、とてもがっかりしていた。

 その店は、都会的な店員がいて、清潔そうでおしゃれな店だったが、売り上げが伸びなかったのだろうか?閉店の理由はわからないが、残念なことだった。

 そういえば、車を走らせていて気が付いたのだが、以前何回か利用したことのある、横断道路沿いにある大きなビデオレンタル店が店を閉めていた。

 かなり以前に、こういう店が出てきたころ、ビデオを借りて週末などに楽しむのは大きな魅力だった。たいがい1本借りるのに、200円とか300円が通常の値段だった。その頃ごくたまに、新聞のチラシで、一本100円という、特売のお知らせが出て、大喜びでレンタル店に出掛けたものだった。

 最近あまり行かないのでわからないが、たぶん今は、100円が当たり前になっているようだ。それどころか、店頭の表示に、80円とか70円と出ているのも珍しくない。

 過当安値競争の見本のような商売ではないかと思う。他店と比べて安い方に客が流れることを防ぐために、負けずに安くする。しかしながら、パイは限られているので、安ければとそれに飛びついて、客が大幅に増えるという事もないに違いない。安売りで、だんだん店の体力が消耗して、倒産という事になったのだろう。

 それらが店を閉めようと決断するまでには、売り上げ増のために相当の創意工夫をして、最後の努力やあがきを繰り返したことだろう。その経営者の苦労は、外からではうかがい知ることはできない。

 店を閉めた今、経営者の人たちは今頃どうしているだろうか?大きな借金に頭を抱えて苦しんでいるだろうか。それとも、やれやれこれで肩の荷が降りたと、一息ついているだろうか。

 商売に夢をかけて、大きな投資をし、時流に乗って収益が相当出た時期もあったことだろう。自分の選んだ道に自信を持ち、商売の才覚を自慢したくなることもあったかもしれない。

 しかし、インターネットの普及に伴い、通販やパソコン配信などの新しい時代の波が押し寄せ、没落してしまう仕事がある。

 過去の実績や温情など全く通用しない、過酷な商売の実相を少し垣間見た気がする。

さそり座の歌 1063

 実家を出て百メートルほど行ったところの家のことを書きたいなと思った。腰が九十度ぐらいに曲がったおじいさんがいた家のことだ。

 その時ふと「あそこに住んでいた人の名前は何だったかな?」と思った。そして「おふくろに聞けばわかるだろう」と何気なく考えている自分にハッとした。

 先月、母の三回忌が終わった。住職から、「法事、法事と続きましたけど、これでしばらく何もありませんよ」と話があった。

 臨終の日、母はベッドの柵の金属の棒を、なぜかしっかりと握っていた。それはまるで、深いところへ落ちていくのから逃れたいとしているようにも見えた。なぜかわからない。

 その日、見舞いから別府へ帰り着いてすぐ、病院から電話があった。「もしものことがあるかもしれませんから、待機していてください」という知らせだった。

 まさかと思いつつ弟にも知らせて待っていると、夜十時頃電話があった。急いで車を走らせて、病院に着くとすぐ、「ご臨終です。十一時四分」という医師の声がした。母の手に触ると温かかった。しばらくして弟が着いたが「ああ、もう」と絶句していたのを思い出す。

 あれから、いわば夢遊病者のように葬儀、火葬、四十九日、初盆、そして三回忌などの行事をこなしてきた。その間なぜか、悲しみの涙が出ることはなかった。ただただ、与えられた使命を果たすべく、次々にやってくる法事の準備をし、それを済ませていただけだった。

 しかし、今頃ようやく「もうおふくろにたずねても、何も答えてくれないんだ」という実感が、私の中にあふれてきた。

 中学一年の時病気で留年した。暇つぶしに縁側でギターを弾いていると、農作業から帰ってきた母が、「だいぶ弾けるようになったかえ」と尋ねた。

 高校生の頃二年ほど入院していたが、何時間もバスに乗って、何か私の好きそうなもののお土産を持って、母が見舞いに来てくれた。

 八十歳を過ぎてから、ヘルパーさんたちのお世話を受けながら、母は暮らしていた。時折様子を見に帰ると、もうあまり動けなくなっていたこともあり、「お茶も入れてあげられんで、ごめんな」と謝っていた。

 長い日々の私の暮らしの中に、いつも私の、私だけの母が居た。もう今は居ない。

inserted by FC2 system