さそり座の歌 1054 

 この時期になると、喪中欠礼ハガキが届く。先日届いた一枚の文面を読んで、「あっ」と息を呑んだ。U先生が77歳で亡くなっていたのだ。

 その先生は中学一年生の時の担任だった。大学を卒業したばかりの若々しい女の先生だった。陸の孤島と言われる田舎の中学に行くことになった時、思わず泣いてしまったと、もう私が成人した後、別府でお会いした時に話していた。

 長い教員生活の1年目に、私はその先生から国語と音楽の授業を受けた。その頃病気がちで、欠席や早退が多かったのだが、その先生に会いに学校に行くのが楽しみだった。

 音楽の授業の時に、悪がね坊主たちが騒いで、先生が泣きながら職員室に逃げて行ったことがあった。そのあと柔道部を指導するとても体の大きな先生がやってきて、「おまえらは~」と割れ鐘のような大きな声で、こっぴどく叱られた。

 若い女の先生を、なめてしまう男子もいたので、苦労続きの毎日だったことだろう。とは言え、それでもそれからあちこちの学校を巡り、合唱指導などに功績を残し定年近くまで勤め上げたようだった。

 どういうご縁からか、私は、先生の自宅のあるこの別府で、音楽活動をするようになった。ハーモニアスなどの音楽会に来ていただき、「頑張っているんやね」と優しい言葉をいつもかけてくれていた。一度、春の音楽祭にもゲストで参加していただき、その声量の豊かさにびっくりしたこともあった。

 先生の音楽のテストで、珍しく百点を取ったことがあった。ところが、下のほうに一つがあった。たぶん見落としたのだろうが、なんだかそのサービスが嬉しくて、音楽が、そしてその先生が好きになった。急遽コーラス部を作るとことになり、男子はコーラスなどやらない風潮の中、私は無理やり引っ張り込まれたりもした。バスに乗ってコンクールに出たのも覚えている。

 そんないろんなことが、私を音楽の道へ歩ませることになったのだと思う。別府で教室を開いた後、先生の自宅へ2度ほどお邪魔して今の暮らしのことを聞いていただいた。最近、音楽会の時に先生の姿が見えないなと思っていたので、また一度顔を見に行かねばと思いつつ、日を流していた。

 喪中ハガキが届いてすぐ、お悔やみの手紙を書き、香典を届けた。それが届いた夜、ご主人から電話があった。

 「あなたのことは、家内がいつも話していましたよ。中学生のころ体が弱かったんでしょ。竹内君、ちゃんと生きていけるんやろうかと心配して、よくあなたのことを言っていましたよ」

 先生に心配していただいたおかげで、いつの間にか68歳まで来ました。有難うございました。合掌。

 

さそり座の歌1052

 国政選挙のたびに、一票の格差に対する問題提起が起こる。大都会では、一人の議員が誕生するのに、田舎の何倍もの得票がなければ当選できない。それはおかしいではないか。人数に応じた議員を出して、人数に応じた政治をするのが民主主義だというのが、格差問題の主旨のようだ。

 その是非はともかく、この事を原発問題にして考えたらどうなるだろうか?

 原発の立地するところは、どこも今にも消えてしまいそうな過疎の村ばかりだ。村や町の存亡さえ危ないところに、多額の原発立地援助金が出て、住民の働き場所も増える。この餌を振り切って、原発反対という首長は中々現れない。内心に不安を抱えていても、背に腹は代えられないまま、いつしか原発に飲み込まれていく。

 しかしながら、そもそも、この原発の発電する電気は誰のために使われているのだろうか。過疎の村の貧しい電化製品のためだろうか。違う。

それは勿論、不夜城を謳歌する大都会の人のためだ。ほとんどの電気は、街の人々が惜しげもなく消費、あるいは浪費している。

福島の原発事故の後、まだ何万人もの人たちが、住み慣れた故郷を離れて暮らしている。思う存分原発の電気を使っている人々には、何の支障もない。田舎の住民の難儀など見向きもせずに、普段の暮らしをのうのうと続けている。この未曽有の惨事にだれも責任を取っていない。

一票の格差の論理で行けば、大多数の都会人が原発に頼っている事になる。それならそれで、必要とする人々が、責任をもって原発に取り組むのが民主主義ではないだろうか?

言葉は悪いが、自分たちで排出した糞は、自分たちで処分するのが筋のはずだ。最終処分場を、東京、大阪、名古屋等の大都会の中に作って、電力を使った責任を取ってもらいたいものだ。

それが実現することで、大都会の人々の原発に対する気持ちも大きく変わる気がする。そのリスクを払っても、原発が必要と言うのか、それとも、肌身に何かを感じた時、これまでと違う反応が生まれてくるだろうか。その大多数の声が原発問題の新たな方向へつながるはずだ。

また札束で張り倒して、疲弊して文句を言う力もない住民の地下へ、最終処分場を押し付けてくるのかもしれない。

一票の格差で、過疎地の議員が少なくなればなるほど、反対の声も小さくなる。

さそり座の歌 1055

 このところ、難しい問題が次々襲い掛かってきている。どのような解決策があるのか、なかなかいい案が浮かばない。ここはひとつ、熟慮して難関を乗り越えなければと、この場を使って、自分を見つめなおしてみることにした。

 具体的なことを書くと差し障りが出そうなので、自分の内面だけを分析、解剖するしかないのがもどかしいが、まあどうなるか、とりあえずやるだけやってみよう。

 自分の望みはいったい何なのだろう。これからどうしたいと本心は思っているのだろうか。愛着、メンツ、対抗心、そんな様々な思いが絡み合って、結論的にはそこから逃げ出そうとしている。しかし、逃げ出した後のこと、周りにいる大事な人との亀裂のことが、目の前に立ちはだかってくる。それこそ進むも下がるもかぶらねばならない泥がたくさんある。

 いろいろな衝撃で気持ちが萎えている。この今の気持ちを変えて、自分にまた火を付けることが出来るだろうか?いや、また火を付けるべきなのだろうか?

 これ見よがしの態度は、子供じみているかもしれない。無責任と非難を受けるかもしれない。

 そうであっても、もう前に進めないのが本心だ。このような醜い感情が周りに湧いてくる事態を招いたのは、やはり私の責任というほかない。ある程度は意識しながら、強硬突破したツケが、大きな嵐になって襲い掛かってきた。その心情を酌むこともできる。しかし、それを分析理解したところで、何の解決にもなりはしない。苦しい思いの時間をたくさん与えたことは、もう取り返せない。

 これまで私が大事にしてきたものへの愛着は、他人にとっては、まったく関係ないことだ。それを理解してくれないと嘆いても仕方がない。一人で淋しく思うしかないことなのだろう。

 炎上する大阪城で、自分で築き上げたものを自分で終わらせてしまうという淀君がいた。おこがましいが、未練たらしくいつまでもすがるより、そのほうが潔い結末かもしれない。

 私ももうすぐ古希を迎える。もうそう残された時間は長くないだろう。この辺がいい潮時なのかもしれない。

 ああ、やはりここへ落ち着いてしまった。自分を見つめて新しい方向を見出すのは、やはりなかなか難しいことだ。

 

さそり座の歌 1053 

 毎月病院で演奏しているのだが、結構リクエストに演歌、歌謡曲の希望がある。長い間のうちに、6人いる演奏者の中で、いつの間にか私が演歌・歌謡曲の担当のようになってしまっている。クラシックや映画音楽なども弾けないことはないのだが、他に演歌をやる人がいないので、そこに落ち着いて長い時間が過ぎている。

 今月の演奏曲にも、2曲演歌を入れた。そのうちの1曲は、「喜びも悲しみも幾年月」という曲だった。♪お~いら岬の…♪という灯台を舞台にした映画音楽だ。これを練習していると、50数年前の中学生のころのことが鮮明に浮かんできた。

 私は幼いころから足が不自由だった。小学校の3年生までは松葉杖をついていた。その後杖なしで歩けるようになったが、体育とか運動会はいつも見学だった。

 確か中学1年生の時の運動会だった。運動の出来ない私は、先生から放送席の仕事を頼まれた。レコードをかけるのが主な役割だった。今では全く見かけない、78回転の大きなLP盤に、針を交換する装置の機材だった。

「天国と地獄」など運動会の定番の曲のレコードがたくさんあった。そのレコードの中にどういうわけかこの「喜びも悲しもも幾年月」が入っていた。学校にあるのは不釣り合いのような曲だった。誰かこの曲の好きな先生がいて持ってきていたのだろうか。

「何回かかけたら針を交換しろよ」という先生が、どこかに行ってしまうと、レコードの選択は私の自由になった。

 この「喜びも…」は、なぜかかけるたびに好きになった。弾むような元気の良さの中に、なんとも言えない憂愁があり、痛く私の心に染み入った。これを何度かけただろうか?

「何度もかけるな」というような先生からの苦情もなく、私は思い切りそのメロディーを楽しんだ。客席の父兄や生徒は、何で今年はこの曲ばかりかかるんだろうと、不審に思ったかもしれない。

 全力で走る紅白リレーなどのバックに、この曲がマッチしていたのかどうかわからない。たぶん違和感があったことだろう。しかし、競争の応援に夢中になっていると、音楽など耳に入らなかったのかもしれない。途中でも終わってからも、この曲に対する反応は何もなかった。

 13歳のころだから、もう55年も前のことになる。

 

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