さそり座の歌 1046

 自動車販売会社の燃費表示の不正が表沙汰になり、会社存亡の危機とさえ言われている。長い間の不正の間には、良心的な人もいて「こんなことをしていたら大変なことになる」と声を上げかけた人もいたことだろう。しかし、「ここでそれを表に出せば、わが社は壊滅的な打撃を受ける。会社のためを思うなら何も言うな」と、上司の強圧的な封じ込めで、ここまで不正が続いてきたのに違いない。

 しかしながら、天網恢恢疎にして漏らさず、白日の下に出てしまった。これからユーザーや社員などに申し開きの出来ない迷惑をかけることになる。強圧で不正をやらせ、隠ぺいを続けてきた上司やトップは、これからどう責任を取るのだろうか。いや、もう責任の取りようもない最悪の事態ともいえるかもしれない。

 一方、パナマに税逃れの資金が大量に送られていることも発覚した。超富裕層が、何食わぬ顔で脱税している。ほんの少しの収入から税金をしっかりと引かれる低所得者層との格差は、際限もなく広がるばかりだ。国を代表するような人もリストにあり、世界中を揺らす事態になっている。これも、本来表に出るはずがないという裏世界のことで、秘密は厳重に管理されていたはずだった。しかし、衝撃のリストが世に出てしまった。

 まだまだ表に出ない様々なことが、我々庶民に知らされないで行われている事だろう。しかしいつも封じ込めが成功するわけではない事例に、勧善懲悪の神の摂理のようなものも、少しは存在しているようで嬉しい。

 そういう事を思いつつ、最近の原発報道のことを考えた。地震報道の最後あたりに、たいがい「**原発に異常はありません」と付け加えられている。地震の影響が原発に及んでいないことを、何度も何度も知らせて、近辺の人々を安心させているのだ。

 しかし、ふと思ったのだ。今、仮に今度の地震で、施設に少しひび割れがあったり、汚染水漏れがあった場合、それを公表するだろうか?と思ったのだ。原発の中で何が起きているか、外部の者には全く分からない。発表を信じるしか手はない。

 今の時点で、少しでも異常が起これば、それはこれからの原発推進の計画が、完全に頓挫してしまうことになる。何としても押さえ込め。決っして表に出すな。

 そんなかん口令が極秘のうちに行われているというのは、被害妄想の杞憂だろうか。安全と隠ぺいされているうちに、原発の爆発が近辺の住民の目にはっきり見えてからの、最後通告のお知らせに結びつくことがないように祈りたい。

 

さそり座の歌 1047

 田舎の家や土地に対する税金のお知らせが届いた。その同じ封書に、「空き家バンクに登録を」というチラシが入っていた。それを読んでいるうちに、気持ちが動いた。

 1カ月か2カ月に1回、田舎の家の窓を開け、室内の掃除に帰る。しばらく行かないとネズミの糞などのごみが散っているので妻が掃いたり、拭いたりして綺麗にする。しかしながら、これをいつまで繰り返せばいいのかと思うと、何も展望が湧いてこない日々だ。

 「空き家バンク」の話は、その徒労感に一筋の光を与えた。店もない、学校もない、医者もいないというような田舎に、住む人が表れるかどうかわからないが、何もしないでいたのでは現実は全く変わらない。

 市役所の担当窓口へ電話をしてみると「是非登録をお願いします」と、歓迎してくれた。嫌なことをお願いするのではなく、市の方も定住促進に熱心という事が分かり、気持ちよく話を進めることが出来た。

 二日後、平日の午後を空けて田舎に出かけた。市役所で担当の方にお会いし、書類を書いた。その後田舎の家で待っているとすぐに、担当の方が二人家を訪ねてきて、あちこちの部屋や外見を写真に撮ってくれた。これを市のHPに掲載して、全国各地の田舎暮らしを求める人の目に付くようにするとのことだった。

 それからいろいろ条件の話になった。貸す場合は、家賃が3万円以下でないとなかなか難しいという意見だったので、1万円と提示したところ「それならいいでしょう」と決まった。今は買い取る場合も、市から150万円の補助があるので、それも進めやすいという事だったが、にわかに売却の値段を決めるのは私には難しく、しばらく保留という事で今検討している。

 家の骨組みは相当古く、はっきりしたことはわからないが、築後100年は過ぎていると思う。それをあちこち改修して、現在まで来ている家なので、住むとなれば、相当補修が必要になるかもしれない。

 しかしながら、必要なものだけ運び出してくれれば、後の片付けや補修は市の補助でやれるという事もわかり、それならと尚更話が進めやすくなった。

 誰かが見学に来る場合を想定して、止めていた電気も使えるようにし、故障していた水道のポンプも修理することにした。

 長い竹内家の歴史を、私の代で完全に終わらせてしまうことになる。さびしくもあるが、後に残される者のために、私が元気なうちに何とかめどをつけたいものだ。

さそり座の歌 1044 
 
 思いがけない訃報が届いた。この別府にギターが根付く基盤を作ってくれた和泉明郎先生が、お亡くなりになった。実は新聞の死亡告知記事を見落としていて、1週間ほど後に訃報がギターの仲間から伝わってきた。葬儀や通夜に参列しなければならない方だったのに、申し訳ないことをしてしまった。残念でならない。

 大慌てでご自宅にお参りに寄せてもらった。仏壇の遺影がにこやかに笑っていて、明るい雰囲気を漂わせていた。「この部屋で、ここにあったこたつでよくいろいろとお話ししましたね」と、奥さんと思い出話をした。

 和泉先生は、教員という多忙な仕事をしながら、いろいろな趣味を持っていた。多彩な趣味の中で、やはりギターが一番だったのだろう、仏間にギター(ラミレス)が目立つように飾られていた。そして、別府百景などたくさんの切り絵も玄人芸として制作していた。仏壇の上の壁には、その中から2枚が選ばれて飾ってあった。どの趣味も、奥の奥を極めようとする限りない情熱があり、その成果をいろんな形で見せてもらえたものだった。

 時折ふらっと、弦がほしいと音楽院に寄ってくれた。最近のギター演奏の到達点の話など、じっくり研究している様子を話していただいた。血色も良く、颯爽と歩いてきてくれていたので、和泉先生と病気は無縁という気がしていた。昨年の終わりだったか、「入院していたけど、ようやく元気になり帰ってきました」というメールをいただいた。「そうだったんだ、一度顔を見に遊びに行かなければ」と思いつつ、元気そうなイメージから、日を流していた。今となれば、悔やみきれない私の怠慢だった。

 私は、40年ほど前に、この別府でギターの活動を始めた。ある楽器店のギター教室がそのスタートだった。その教室を始めてすぐに、「クラシックギターをしている人にやっと出会えた」と尋ねてきてくれたのが和泉先生だった。

 その時すでにかなり独学で研究をしていて、いろんな難解な曲を弾きこなしていた。ビラ・ロボスの5つの前奏曲など聴かせてもらい、たくさん刺激をいただいた。

 その後、ルベックというギター合奏団や、ギターサークル連盟が発会することが出来たのは、和泉先生という強力な軸があってのことだった。

その和泉先生が・・・・・。

心の中に、ぽっかり大きな穴が空き、冷たい風が吹き抜けている。

さそり座の歌 1045

 E・F・C(エチュード・ファミーリー・クラブ)という会がある。エチュードとは練習曲のことで、今、学んで練習している曲を、人前で弾く機会を作ろうという事で始めたものだった。

 資料を見ると、1回目は2002年4月14日に開かれている。場所はギター仲間が紹介してくれた、観海荘という高台にあるホテ?の喫茶店だった。ギター、フルート、ピアノの演奏で18名が参加している。

 しばらくして、会場は流川通りにある亀の井ホテルへ移った。あることから懇意にしていた社長のFさんが、音楽の溢れるホテルにしたいと、グランドピアノも買い入れて、われわれの会を開かせてもらえるようになったのだ。ありがたいことに、この会のほかハッピーコンサートなども迎え入れてくれたりしたものだった。

 しかしあるとき社長が交代になり、お世話係の人から「これまでのようにはいきませんよ」と冷たく宣告された。無駄はすべてそぎ落とす経営方針で、後にはピアノも売りはらってしまったほどだった。

 そういう事で、出演者もだいぶ少なくなったこともあり、亀の井ホテルから音楽院の教室へ場所を移動した。そういういきさつなどを経て、現在に至ったという経過がある。

 2016年3月13日、第168回目の例会が開かれた。丁度まる14年が経過した会だった。毎月、毎月第2日曜日の夜、約10名ほどの方が楽器を持って集まってきてくれた。それぞれが自分のテーマを決めて、少しずつ変わって行く様子が、この会で確かめられた。積み重ねの威力をそれぞれの方がが実感しているからこそ、今日まで続いているのだと思う。

 この第168回目で、いつも参加者が記録帳に演奏曲名を書き込むボールペンがつかなくなった。1回目から14年間、変わることなくこの例会を記録してきたボールペンだった。これまで、何百名の方がこのボールペンを手にしたことだろう。指紋を調べれば、判別出来ないほどたくさんの方の痕跡があるはずだ。

 それはテイジンという宣伝の言葉の入った、もらい物のボールペンだった。たった一本のありふれたボールペンの終了が、これほどの感慨をもたらすことは、ほかではなかなかありえないだろう。ボールペンを手で弄びながら、過ぎて行った14年の、様々な映像を思い出している。

 

 

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