さそり座の歌 1042

 今日の新聞に、「線量が低下した指定廃棄物、一般ごみ扱いで処分」と出ていた。放射性セシウムが基準より低下した場合は、新ルールで一般ごみとして処理し、膨大な核のゴミを少しでも減らそうという事なのだろう。

 この新ルールというのが、途方にくれている厳しい現状を表している気がしてならない。ゴミは増える、引き受けるところはない、早く解決しろと迫られる。国が全力をあげても解決できない難問が山積みされている。

 そんな時に、これまでできなかったことを可能にする、新ルールが登場する。海に流せなかった排水が、一定の濃度に薄まれば排水できるようになる。住めなかったはずの地域が、基準を変えれば住めるようになる。核のゴミが一般ごみと一緒に焼けるようになる。

 誰か偉い人が基準を決めたり変更したりするのだろうが、低下した、薄くなったという事は、0パーセントという事ではない。たぶんこれぐらいなら、まあ、大丈夫だろうと、周りの住民を使って実験しているようなものだ。

 薄い濃度でも、海に流し続ければ蓄積されていくのは子供でも分かる。その影響が10年後にどう出るかは分からない。いや分かっている学者もいるかもしれないが、それを言えば、排水の処理はできなくなる。ごみの中の低濃度のセシウムが、焼却場を中心に拡散して、それからどうなるかは、これからの実験になる。

 はっきり言えば、安全、確実な対策はないのだ。膨大な時間と共に少しずつ消えていくのを待つしかないのだが、それは、日本人の、いや人類の自滅への道筋ではないのだろうか。核のゴミひとつ処理できないのに、次々と原発が再稼働されていく。自滅への拠点が増えていく。

 

かなり以前に作った詩に、一行加えた。

 

国(われわれ)が責任を持つ

 

この企画は

我が社の存亡をかけた

のるかそるかの大事業である

万一の場合 会社は破滅

社員はすべて路頭に迷うという

悲惨な結末もあり得る

世界中の人々から

恨まれる事態にもなる

しかし例えどんな大きなリスクがあろうとも

前へ進むのだ

その覚悟を固めた上で

全社一丸となって

この大事業に取り組むという

選択をするのだ

 

と言った負の心配は

しなくてよろしい

万一の場合は国が責任を持つ

 

東電2015年度過去最高益

 

 

さそり座の歌 1040

 妻の買い物の長い待ち時間に疲れて、缶コーヒーを買った。飲みながら夕刊を見ようと広げてみて目を見張った。大きな見出しで「カフェイン中毒死」という文字が目に飛び込んできたのだ。まさにどんぴしゃりの内容で、強烈パンチを受けた。

 コーヒーとの付き合いは、相当若いころからのことだ。それも、飲み始めて、だんだん量が増え、体調不良になり、いったん止める。しかし、体調が回復してしばらくすると、また少しずつ飲み始めて、だんだん量が増えてくる。そして体調を崩す。しかし、そこで完全にコーヒーを断っていると、次第に体が軽くなり、普段の自分に戻る。

 ほんとに、自分ながら、阿呆だなと思うのだが、性懲りもなくその失敗の繰り返しが続いている。このコーヒーの波の中を泳ぎつつ、人生の時間が過ぎている気がする。これまで何度この波に翻弄されたことだろう。

 何度失敗しても、コーヒーを許可する材料が目の前にちらついてくる。「一日4杯飲むと、○○病の予防になる」とか書いてあるのを見ると嬉しくなる。まあ、週に一度ぐらいいいだろう。今日は眠くてだるい。こんないいことがあったんだから、コーヒーを一杯。自分に呆れる失敗でムカつく時も、気分直しに一杯。演奏会終了記念に一杯。

 なんだかんだと理由を付けて、次第に量が増えてくる。気が付くと体調が悪い。ムカムカして吐き気がする。気分が悪い。熱が出る。ああ、またこれか、飲み過ぎたなと自分の意志の弱さにしょぼくれる。つくづく自分をコントロールすることの難しさを味わう。

 アルコール中毒というのも、一旦陥るとそこからなかなか抜け出せないようだ。タバコでも、やめようとするには相当の難関がある。アルコール中毒、ニコチン中毒、カフェイン中毒…中毒から抜け出すのは、ある種の病気との闘いともいえる。その闘いは、人の心の弱さとの闘いだろう。しかしながら、人の嗜好のコントロールとは、何と難しいことだろう。それが、中毒の中毒たる由縁でもあるのだろうが。

 たぶん、普通の人は、少々コーヒーを飲んでも腎臓が丈夫なら、何の問題もないのだろう。私の場合、腎機能が弱いという事が、なおさら中毒発症に結びついている気がする。体に入れたものを、きちんと体外に排出する機能があれば、カフェインが蓄積して問題になることはないのだろう。

 分かってはいるのだが・・・いつしかくじけてしまう。今回の記事が、リバウンド防止の決定版になれば、とても有難いことだ。

 

 

 

さそり座の歌 1043

 年に1回開催しているニューイヤーコンサートが終了した。今年で、22回目、つまり22年の継続が出来たことになる。多くの仲間と力を合わせてイベントを開催していくと、様々な達成感が味わえ、少しも負担には感じない。私の人生の中で、こういうものにかかわれるご縁があったことをとても喜んでいる。大きな人生の宝物だ。

 ギター連盟の定演は38年、ハッピーコンサートは16年続いている。何もないところから起ち上げて、ここまで来た。スタート当初は、妻や子供たちが手伝ってくれ、次第に軌道に乗り盛況になってきた。

 ところが最近、期せずしてこの二つのイベントに対し、開催時間が長すぎるというご指摘を受けた。長くなることでの弊害もよくわかる。長時間縛られる観客、お世話係のボランティアの方の負担、それぞれに難しい問題がある。

 しかし、私の本音を言えば、人がたくさん集まり、盛況になることで時間が長くなるのは、実はとても大きな喜びになっているのだ。長い間少しずつ積み重ねてこの日を迎えられたことを、誇りにさえ思っている。様々な声かけをして、参加者を増やしてきて今があるという、長い歴史的背景もある。出来る事なら「長くて何が悪い」と叫びたいという正直な思いもある。

 しかし、それはきわめて個人的なことで、もう周りの方へ押し付けられる時期ではなくなっているのだ。それはいわば個人的なエゴというかわがままなのだろう。これからは、もう少し一緒にやってくださる方への配慮を考えて、運営しなければならない。

 どのコンサートも、いわば個人商店的な、家内工業で乗り越えてきた。それが、次第に大きくなってきたので、創業社長が引退しても、継続が出来るようなきちんとした仕組みを作る時期かもしれない。

 少し長く歩けば股関節が痛くなる、耳の聞こえがよくないなど、先頭に立って働く力が私にはもうなくなりつつある。どのことも、誰かにお願いしてイベントが進んでいく。これまでは、その自分で出来ないというジレンマを妻や子供がカバーしてくれていた。そして大変ありがたいことに、心あるボランティアの人材も増えてきている。

 個人商店から、株式会社に出世しつつあるのだろう。そうなれば、取締役会の意向を会社の運営に反映させるのは極めて自然なことだ。つまらない感傷を引きずっていると、会社の進路に誤りが出る。

さそり座の歌 1041

 悪い奴が知恵を巡らせて「オレオレ詐欺」等で年寄りをいじめている。これだけ新聞、テレビで騒がれているのにと思うのだが、悪知恵の働く奴らは次々に工夫を凝らして、心優しい年寄りを手玉に取り、まんまと大金をせしめている。相手は騙しのプロだから、ああ言えばこう言うで、いつまでも被害が続くようだ。

 先日それに輪をかける哀しい記事を読んだ。八百万円ほどをだまし取られてしまったお年寄りが、家族に責められて自殺したというニュースだった。

 推測だが、八百万円をいわばどぶに捨てたのを知って、その息子は怒り狂ったことだろう。「会社の金を使い込んだので」とかいう電話連絡に、息子のためを思い、急いで送金した母親の気持ちを、息子がどう受け止めるか目に見える気がする。口汚く罵倒したかもしれない。

 その怒りは、成り行きによれば当然自分がその八百万円をもらえたのにと言う背景があれば尚更のことだ。ドジな母親にひどく当たりたくもなるだろう。貧しい暮らしをしていれば、その気持ちも分からなくはない。そこで、鷹揚に、「いいよ、いいよ仕方ない」と庇うことが出来ればすごいことだが、ちょっと考えにくい。

 私や弟が家を出てから、私の母は田舎の家に独りで住んでいた。いわばほったらかしで街の暮らしに追われていて、私は、ごくたまに思いついて母の住む田舎に様子見に帰るだけだった。

 三か月とか、半年に一度実家に入ると、何だか見慣れないものが目につく。狸の置物だったり、ゲルマニウム付きの蒲団だったり、屋根や床下のリフォームだったりと、私から見れば不要な新しいものが目につく。そのたびに「またこんなものを買って」「もう、買わん、買わん」という会話が行われたのを思い出す。

 一人暮らしの長い一日に、口の達者なセールスマンがやってきて、何やかやすすめると断り切れずに買ってしまうのも分からなくはない。しかし、私はその弱腰に腹を立て「なんで断わらんのかえ」とどれだけ責めた事だろうか。いわば私も、八百万円の息子と同罪だった。

「私がこれまで暮らしてきた中で貯めたお金を、自由に使って何が悪い」と、開き直ったりは勿論しない。いつも「ごめん、ごめん」と母は謝るばかりだった。

 母が亡くなって、もうそんな心配をしないでいいころになって、少し反省している。

 

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