さそり座の歌 1036

 私は、人前で話をするのが苦手だ。声が通りにくい、緊張して固くなる…などがたぶん原因だと思う。どうにかしたいと思うのだが、なかなかうまくいかない。苦手とはいえ、いろんな場面でどうしても話をしなければならないことが出てくるので、改善出来たらなあと思いつつ、長い時間が過ぎている。

 いろんな場面で、上手に笑わせている方の話を横で見ていると、別に何も言わなくても、その人の出す雰囲気がとてもいいのがわかる。包容力と言うか、やわらかいオーラと言うか、ただ立っているだけで、会場の人々の顔の表情が緩んで、その人の話を聞こうとしているのだ。

 羨ましくなるが、私の場合は、そうはうまくいかない。いざ自分の番になると、座が固くなってしらけるような気がするのだ。

 どうしてこうなるのだろう。何か解決策はないのだろうか?と長いこと思っていた。そんな折に、村上春樹の本に出合った。

 村上春樹は、インタビューの名手だそうだ。それで、ある対談で、「相手の心を開かせて、いいインタビューをするコツは何ですか」と言う問いかけがあり、その答えが出ていた。

 回答は、「インタビュー相手を好きになることです。大好きに思うことです」と言う、単純明快なものだった。

 それを読んで、何かがピンと反応するのを感じた。「好きになる、大好きになる」と言うことは、まずこちらが心を開いている事だと思う。その気持ちには、相手のすべてを認める、すべてを許すという無言の雰囲気が出ている事になる。そこからお互いが肩の力を抜いた対話が生まれてくる。それが、いわば、魔法のコツなのだと私は思う。

 なんだかそりの合わない人だな、ちょっと警戒して用心しなければ…と言った気持ちが少しでもあれば、自然にそれが相手にも伝わってしまうのだろう。

相手が身構えてしまえば、その方の本質のわかる本音の言葉は、なかなか出てこない。建前だけのインタビューで終わることになりかねない。

 話をする前提として、その対象となる方々を好きになることを少しずつ実践している。老人ホームでの慰問演奏の時、目の前に並んでいるおじいちゃん、おばあちゃんを、好きになる、大好きに感じると、まず自分にたくさん言い聞かせて、話や演奏を始める。

 難しい面もあるが、老いた父や母が前に居てくれるような気持ちで、話の前にまず、自分の顔と心が緩んだ状態を目指せたらと念願している。まだまだ道は遠いのだが。

 

 

さそり座の歌 1039 

 車での帰り道の脇に、小さな魚屋がある。丁度信号待ちをするところなので、そこでいつも店を覗いている。老夫婦二人が力を合わせて開いているのが何だか好きで、そこに停まると心が温まると勝手に思っていた。

 朝早く店の前を通ると、痩せたご主人が、曲がった腰を伸ばすようにして軽バンから魚をおろしている。魚市場から仕入れてきたのを寒い風の中で店に運び込んでいるのだ。

 また、入り口を入ってすぐのところに古ぼけた流し台があり、ゴムの前掛けをした奥さんが魚を手際よくさばいている。切って内臓を取り出したりして、流しっぱなしの水道で洗っている。手が冷たいだろうなと思うが、その動作にはゆるみが少しもない。

 店には近所のおばあさんなどが来ている。小さなビニール袋に少しだけ買っているようだが、いろいろと世間話は長そうだ。結構大きな声で話し、笑いあっている。そこには、人と人の触れ合いが生まれている。レジでピッピッ、はい次という店とは違う。

 つい最近、また覗いていたら、店の中の裸電球が、LEDに変わっているのに気が付いた。今、裸電球そのものを見ることが少ない。しかし、小さな紙に値段を書いた魚ケースなどを照らすのに、裸電球はなんだかムードが合っている。ほのぼのとした灯りが、この店をやさしく包んでいる。

 「LEDは長持ちするからなあ、そのほうがいい」と思った時、ガラス窓に小さな紙が貼ってあるのが見えた。よく見ると小さな字で、「12月26日で閉店します。長い間お世話になりました」と書いてあるのが読み取れた。

「えっ」と、車の中でのけぞってしまった。これまで何十年も続けてきた店が、はがきほどの小さな紙で終わりを知らせている。

 その店の軒に、なぜか小さな風車が吊るしてあり、風に回っている。それは、子供さんを育てていた名残りなのだろうか。若い二人が助け合いながら子育てをし、学校にやり、子供はどこかで就職し家庭を持っているのかもしれない。

 長い二人の歴史が、この魚屋を舞台に続けられてきたのだろう。私の知らない人生のいろいろが、この小さな魚屋と共に営まれてきた。それが終わりを告げる。

 牛尾となるよりも、鶏頭を選んで、二人は鮮魚店を守り続けてきたのだろう。閉店のさびしさより、やり遂げたという誇りと自負をこの正月に味わってほしいものだ。

 前を通り、ちょっと覗くだけで、一度も魚を買わなかった私だが「よく頑張りましたね。お疲れ様でした」と、心の中で繰り返している。

さそり座の歌 1038

 約50年前、高校生の半ばの頃に私は亀川の国立病院に2年間入院していた。18歳から20歳の頃までだった。その時、隣のベッドの方の新聞を借りて読んでいると、「別府文学サークル」の小さな記事が目に留まった。

 私は、文学に少し興味があることを書いて、そのサークルにハガキを出した。しばらくしてIさんが病院のベッドまで訪ねてきてくれた。それから病院宛に毎週の例会の資料を送ってもらい、ごくたまには病院を抜け出して、例会に参加することで、お付き合いが深まって行った。おじさんおばさんたちのグループの中で、坊主頭の高校生崩れは異色だったことだろう。

サークルの出している同人誌【文礫】に初めて「さくら」という詩が掲載されたのを嬉しく思い出す。あれが私のささやかな文学の森へのスタートだった。あれからどれだけ読んで、書いてきたことか。導いてくれたIさんのお蔭だ。

そもそもその新聞記事のちいさな偶然がIさんとの出会いのきっかけになり、私の人生の夜明けにもつながった。それは大きな分岐点だった。入院の2年間は、学校にも行けず、体も不安で、いわば暗鬱の日々だったはずだが、神様はそこに一粒の光の種を授けてくれていたのだ。

 退院して社会に出た私は、何のつてもなかった。只々、Iさんの手に引かれて社会へ乗り出したのだ。Iさんの慈愛に満ちたまなざしにつつまれながら、ここまで来ることが出来た。通夜や葬儀での遺影を眺めながら、様々な場面を思い起こして胸が熱くなった。

 週に一度(日曜日夜)のサークル例会を、愚直に五十年ほども続けてきたIさん。その背中を見て私は日々を暮らしてきた。私に、持続するという事を教えてくれていた生きたお手本だった。私はIさんに見てもらいたくていろんなことを続けていたのかもしれない。

そのサークル例会のために、毎週原稿を集めてガリ版刷り(懐かしい)をし、例会機関誌を作る仕事をIさんから与えてもらった。それは私の生きがいにもなり、日々のプライドを支える私の支えにもなった。

その作業を手伝ってくれたのが、後に妻になる女性だった。話は進み、Iさん夫妻の仲人で、私は家庭を持つことが出来た。この事ひとつだけでも、私の人生がどれだけIさんのお蔭で出来上がっているのかがよくわかると思う。

以後、家を売って今の教室を開くことや、妻が病院をやめるかどうかなど、どれだけ話を聞いて頂いた事だろう。人生の大きな曲がり角ではいつも話を聴いて頂いていた。並べて行くときりがない。

家を売ってこの音楽院に引っ越す時、気の弱い私は、賭けに似たその大事業の重苦しい重圧に耐えられず、胃潰瘍で吐血し入院してしまった。その時、妻を支えてIさんが取り仕切り引っ越しの作業をやり遂げてくれた。私はベッドの上で「済んだ」という報告を受けるだけだった。

あれから30年余り、この地に教室を構えて暮らすことが出来ている。Iさんに応援していただいたおかげで、今こうして、この音楽院での様々な私の人生を振り返ることが出来る。

そういえばこの「さそり座の歌」も、今はサークルが無くなり宙ぶらりんだが、かっては、毎週の別府文学サークル例会機関紙に連載していたものだった。機関誌を作るのに原稿不足の穴埋めの役もあり、20代後半のころから書き始めて約40年余り、いつのまにか1038回まで来ている。

私の心の中の小さな財産ともいえるこの「さそり座の歌」は、Iさんの手のひらの上で暮らしているうちに生まれたものだった。

葬儀から帰って一番にこの「さそり座の歌」を書いている。もう少し「さそり座の歌」の続きをIさんに読んでもらいたかった。 
11月1日 合掌

10月31日通夜
秋さぶや人生の父送る夜  幸一

さそり座の歌 1037

 母が入院して1カ月ほどになる。週に一度ほど見舞いに行く。一進一退なら嬉しいのだが、個室に入って顔を見るたびに、その変わりようにぎょっとしてしまう日々が続いている。素人目にも、これはちょっと厳しいという感じがしている。

 今日の見舞いは、病状説明と、二つの新しい治療の承諾書を書くためのものだった。医師との話し合いの前に母の部屋に入ると、酸素吸入の装置が顔にセットされていて、また今回もぎょっとなってしまった。

 ようやく太ももの血管が確保できたとか、いろいろと医師の説明をお聞きした。打てる手はすべて施しているという若い医師は、信頼が出来好感がもてた。

その後、承諾書を書き、もう一度母に声かけをしに病室に入った。声をかけると、酸素吸入のマスクの中から、不明瞭な声が聞こえた。何と言っているかわからなかったが、こちらの言うことが伝わっているのは感じられた。

 病院を出て、病院の前にあるファミマで恒例の反省会?をするために百円アイスコーヒーを飲んだ。ほとんど毎回、帰りには車の中でコーヒーを飲みながら、新しい事態にボーッとなっている頭を冷やす。妻といろんな状況を復習し、これからのことなど検討する。

 何回前からだろうか、この反省会の時に私は、「もう覚悟はできているけどな」と言う言葉を使ってしまうようになった。医学に詳しい妻には、いろいろ解説してもらい、現実がどう動いているのかも理解が出来ている。

 そういう事態の時に、今日は別の承諾書も書いた。治療がうまくいき、いずれ退院の時には、介護度を変更し、どこかに寝たきりでも対応できる介護施設をさがすことを、承諾するという書類に記名捺印した。

 そういう日が来ればいいなとは思うが、実感は全くない。承諾書を書いた新しい治療が効いて、奇蹟的に回復してくれれば何といいことだろう。

 電話が鳴って「市民病院の看護を担当している**ですが」と言う声がすると、息を呑んで次の言葉を待つ。手で顔などをさわらないように手袋がいるとか、腹に巻くさらしがいるとかの用件がわかるとホッとする。

・・・と書いた時、電話が病院からかかってきた。今日帰られた後から、呼吸状態が悪くなりましたので、急変の恐れがあります。と言う連絡だった。いよいよ来るべき時が近づいているようだ。

●奇しくもこれを書いた夜、11時4分が  母の臨終時間になりました。 

さそり座の歌 続1037

 電話は、夕方病院を離れ自宅に着いてすぐのことだったので、ちょっと気持ちが震えた。今日の承諾書のことなどを思うとまさかとは思うのだが、やはりとも思わざるを得なかった。

 状況を肉親に知らせた。まさかの時のために準備をしていたが、なかなか電話がかからなかった。持ち直してくれたのかなとちょっと力を抜きかけたころ、電話が鳴った。10時だった。それっと出発して、11時に到着。1016114分が臨終時間だった。手などを触ると温かだった。

 お寺(国見町岐部にある胎蔵寺)に電話、葬儀社に電話。日が変わって午前2時に葬儀社のお迎えの車が病院に到着した。深夜なのに担当医師や看護師まで外に出て見送りに来てくれた。

 午前3時、葬儀社到着。それからこれからの打ち合わせ。細々としたことがたくさん。喪服などの準備もあるので、午前4時過ぎいったん家に帰る。

 それから人の輪のありがたさをたくさん味あわせて頂いた。たくさんの方のお参り、ギター連盟や各合奏団、ハーモニアス、トータルブレインなどから御花をいただき、これまで生きてきた私の人生が認められたように思うと、涙があふれてならなかった。多謝深謝。

 

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