さそり座の歌 1032
母方の里に住む従姉妹から「戦没者特別弔慰金」についての電話があった。何でも、戦死した方の兄妹で残るのは私の母だけになり、弔慰金を受け取る該当者になったということだった。
それはともかく、その時どういう流れからか、話題が「ぴんぴん、ころり」がいいなあという話になった。
その従姉妹の祖母も、また父親も、それに大分や八幡などの叔父、叔母も、皆さん心臓関係の病気で亡くなっている。それで、「たぶん私たちも、心臓でころりと逝くで」「それならいいなあ」と妙な楽観的な結論で、二人は納得したものだった。
まだ中学生の頃だった。祖母が生家に来てくれていて、庭の草取りをしていた。その時、祖母が急に胸を押さえて苦しそうにし、たまたまそこにいた私に、「薬を取ってきておくれ」と切れ切れの声で言った。急いで薬を持って行くと、祖母は、持ち直したようだった。多分あれは、舌下に入れるニトログリセリンだったのだろう。
祖母が心臓で亡くなったのは間違いないが、私の母が心臓に病気があることは一度もなかった。父親は結核だったし、父親の兄妹は、胃がんなどの消化器系の病気が多かった気がする。
そうしてみると、遺伝の関係で私が、心臓でぴんぴんころりの可能性が果たしてどれくらいあるのか分からない。
選べるものではないのだろうが、ぴんぴんころりの一番いいところは、長く苦しまないで済むのではないかと思うことだ。マカロニ状態になって、「痛い、苦しい」の時間が長いのは嫌だなと思う。
しかしよく考えてみると、突然スパッと人生が終わるのと、少しずつ心の準備をして覚悟を決めてその日を迎えるのと、果たしてどちらがいいか迷うところもある。
ぴんぴんころりの場合、今夜にでも、明日にでも、その時が来てもいいということだ。多分、そんなことはあり得ないと思っているからこそ、軽々しく「ぴんぴんころり」がいいというのだろう。
何も思い残すことなく、身の回りの整理も全くしないまま、さよならできる覚悟が「ぴんぴんころり」には要る。「ぴんぴんころり」を願うなら、普段からいつでもその日を迎えることの出来る心構えがいる。それもまた、なかなか難儀なことだ。
生きざまは自分である程度決められるが、死に様は選べない。さて、私にはどんな結末が待っているのだろう。
さそり座の歌 1033
今日の新聞に次のような見出しの記事があった。「福島第1原発汚染雨水流出続く」。そしてその下に、「除染袋240袋流出」ともあった。海も陸も汚染物質が広がっている。誰も責任を取らないまま、重大な問題が放置されている。
かなり前に、次の詩を書いた。
嘘
宰相は嘘をつく
汚染水は
「完全にブロックされている」と宣言し
オリンピックを掠め取る
大成功とほくそ笑む
宰相の嘘は
これからの日本を背負う
少年少女に
見えない霧となって
降りかかる
染みとおる巨大な嘘
10年後 20年後
黒い芽が吹いてくる
黒い事件が続発する
どうして
このようなことをするのか
理解できない
識者は嘆くばかり
大本が腐っていれば、うまくやって名誉を掠め取ろうとする者も出てくる。五輪エンブレムは前代未聞の日本の恥となった。それも突き詰めれば、それを許してしまう宰相の作り出す風潮に他ならないのだ。
「世界一安全」「日本一住みやすい」・・・と、軽々と出てくるこの世界一や、日本一の言葉に信頼がおけるだろうか?目くらましの気まぐれな言葉を無視してはいるのだが、悲しいことに、いつしか思い通りに動かされている。
この怖さに少しずつ国民は目覚めつつある。新たな運動の波が広がっている。
外国での大規模なデモの報道を知ると、日本人はなんと従順でおとなしい国民なんだろうと思っていた。怒りを表現するエネルギーなど持ち合わせていないのではと、さびしく感じたものだった。
しかし、日本人は、物言わぬ家畜ではなかった。今度ばかりはかなり違う勢いが出てきている。この息吹が大きな成果につながることを祈らずにはいられない。
さそり座の歌 1035
2週間ほど前、ホームに入所している母が救急車で緊急入院したという連絡があった。慌てて駆けつけてみると、話しかけてもほとんど反応しない感じだった。何度も呼びかけると、目は閉じたままだが、ようやく少しだけ唇が微かに動いたのを喜んで、その日は帰った。
呼吸器を挿入するかどうかを決めてほしいということで、次の日の朝、9歳年下の弟などに集まってもらった。難しい判断だったが、高齢でもあるし、もうこれ以上苦労させなくてもということで、医者にお願いをした。それから田舎の家の掃除に帰って、午後また寄ってみた。「ああ、目が開いてる」とびっくりしながら話しかけると、受け答えの言葉も出てきて、笑顔も見え安心した。
ところが次の日、個室に移されたという連絡があった。行ってみると、前日と変わらず、よく話が出来た。しかし、心配な状況には違いなかった。
そういう中で、弟の長男の結婚式の日が10日ほど後に迫っているのが、悩みの種だった。万一の時、俺は行けないけど、式は予定通りやろうと決めて、話し合いの結論を出した。それにしても、折角のお祝いに重なっては、向こうの親族の方にも申し訳ないと、気が気ではなかった。
電話がかかるたびに、びくっとしていたのだが、式の3日前に、病院から電話があった。ドキドキしながら話を聞くと、熱もだいぶ下がってきたので、とろみをつけたものを口から入れるリハビリを始めたいということだった。思わぬ朗報に、それこそ飛び上がって喜ぶ気分だった。
名古屋の式に出かける前に、病院に行き「結婚式に行ってくるよ」と話すと、「気をつけてな」と答えてくれた。
式の前日、娘のところに泊まり、翌朝の新幹線で、4歳の孫も一緒に連れて、名古屋へ向かった。
久しぶりに大学を卒業して社会人になっている甥に出会い、「おお」っとたじろいだ。なんと私の父に,甥の顔立ちがそっくりだったのだ。弟が3歳の時、父は38歳で亡くなっている。弟も父のことはよく覚えないだろうから、この感激は私一人だけのものだったろう。
父は早くに逝き、母の生命力の火も消えつつある。そんな時に、この甥の姿を見ながら、私の父母の命のバトンは、ここへつながっているんだなあと、一人で感慨に耽る式だった。
幸い、不在の3日間に電話がかかることもなく、予定通り別府へ戻ってきた。大きな肩の荷が降りたようでほっとしている。
さそり座の歌 1034
この時期になると、長い間野球で活躍した選手が、引退表明をすることが多い。たいがいの選手は笑顔で、「なにも悔いはありません。私の野球人生は幸せでした」というようなコメントをする。そこには、春の「戦力外自由契約」という残酷な雰囲気はない。功成り名を遂げた達成感が溢れている。
そんな記事を読みながら、まだ何時になるかわからないが、自分のギター人生の引退のことを考えた。
13歳でギターを始めて、約50年。いつの間にか、もう最終盤に近いところまで来ている。耳の聞こえも悪くなってきたし、これからあと何年続けられるかわからない。
しかしながら、いささかおこがましいが、もういつ終わりが来ても、私に悔いは少しもない気がする。(いざとなると、また別の思いも出てくるかもしれないが…)
今のところは、我ながらよくやったと、自分の歩いてきた道を褒めてやりたいと思っている。振り返れば、幸せなギター人生だったと、つくづく思うばかりだ。
足や耳の不自由、腎臓病の後遺症。そんなハンディーを持つ私に、他にどんな仕事が出来ただろうか。いくつか見つけたとしても、50年も続けることは叶わなかったことだろう。他の仕事では、体が耐え切れずに、もう今頃生きていなかったかもしれない。
腎臓病の関係で、トイレによく行く。しかし、30分、長くて1時間のレッスンの隙間には、すぐにトイレに行ける。これだけトイレに通って何も言われない職場は、ギターぐらいしかないだろうとよく思う。トイレを我慢しなくていいだけでも、どれだけ体調維持に役立つ仕事か計り知れない。
長くは歩けない。重いものは持てない。事業起こす資金や才能など勿論持ち合わせていない。
20歳の頃、亀川の国立病院に2年ほど入院していた。その時、担当の老医師が、若い私の将来を心配してくれていた。体に見合う仕事として、「タバコ屋を開いたらどうか」と言ってくれたのを思いだす。また、退院してすぐ、何か仕事はないかと考え、本が好きだったので書店を思いつき人に頼んでみた。しかし、書店は重いものを持つ力仕事とわかり、断念した思い出も残っている。
細腕で抱えられて、足を使わずに出来るギターだけが、私に残された一筋の道だったと思う。振り返れば、様々なきっかけや幸運がここまで私を連れてきてくれた。四方八方に、お礼を言わなければならない方ばかりがいる。