さそり座の歌 1026 

 娘一家がこの春広島へ引っ越すことになった。娘の旦那が佐賀県からの派遣で、3年間広島大学の職員となって、教育を学んでくるようだ。発令からの期間が短く、大慌てで引っ越し準備をして、大学の官舎へ荷物を運び込んだ。

 荷物を入れてからすぐ住めるようにはならないので、娘は0歳と4才の孫を連れて我が家でしばらく待機した。大きな荷物を開き、埃だらけの部屋が整理できるまで、幼い孫は一緒にいると足手まといになることから、別府で暮らすことになったのだ。おかげで、一週間ほど孫と過ごす楽しい時間が持てた。

 大学を卒業して娘はしばらく一緒に住んでいた。音楽院でかなりの人数にピアノを教え、近くの私立小学校で教員もし、それなりに充実した音楽生活をしていた。しかし、かねての計画通りに、佐賀の彼との結婚の話が進み、娘は6年ほど前に佐賀へ嫁いで行った。

 佐賀まで車で約3時間、電車でも3時間だった。何回か車で遊びに行ったが、最近はいつも、電車で往復した。その方が、相当気楽なことが分かり、高速を長距離走る車は使わないようになった。

 しかしながら、その長距離を少しもいとわず、娘は佐賀から孫を連れて、何度も里帰りしてくれた。それが、じじばばにはどれだけ楽しみで、心温まる時間だったか分からない。少しずつ成長していく孫との会話は、かけがえのない時間だった。

 ところが、これから3年間は、もうそういうわけにはいかなくなる。車で、5,6時間かかることから、ちょっと車でというのは、ありえないのだ。

 しかしながら、これまで佐賀へ行くのに、電車で3時間かかっていたのが、これからは、2時間で行けるらしい。はるかに遠くなったのに、新幹線を使えば、乗車時間は1時間も短縮になるというのだ。ちょっと不思議になる現象だ。

 一週間の待機滞在はあっという間に終わり、広島へ旅立つ日が来た。手続きで佐賀へ帰っていた旦那の車と合流するため、鳥栖まで孫たちを乗せて行った。いろんな子供用の荷物をギッシリ積み、娘一家は旅立って行った。

 広島へ着いてから、各種手続きや幼稚園の入園など激動の時間が待っている。大人も大変だが、4歳の孫も、新しい土地、新しい住まい、新しい幼稚園になじむのが大変なことだろう。明るく元気に乗り越えてほしいものだ。

 実はこれまで素通りばかりで、広島観光へ行ったことがない。これを機会に、娘のところが落ち着いたら、原爆資料館などへ行って、少しだけ広島通になりたいものだ。

 

 

 

さそり座の歌 1027

 丁度米寿の誕生日の日に、母が老人ホームに入所して、1年4か月ほどが過ぎた。独りで家に居る時より、話し相手がいるなどの環境がいいせいか、そこの生活でずいぶん元気になった。月に一度ほど面会に行くと、手押し車を押して出てきてくれ、いろいろと話が出来ていた。

 安心していたところ、施設長からメールが届いた。「○○様の状況報告」というタイトルで、母の様子を知らせてくれたのだ。一度目のメールには、「A型インフルエンザに感染し、39度の発熱がありました。しかし今日は熱も37度台に下がり、食欲も出てきましたのでご安心下さい」という内容だった。

 このまま治ってくれるのだろうと気楽に構えていた。4,5日連絡もなかったので、やれやれ元通りに戻ったかと思っていたころ、2度目のメールが届いた。「発熱を繰り返していますので、訪問看護の手続きをしたいと思います。印鑑を持ってご来園下さい」という知らせだった。これは大変と夕方の仕事をキャンセルして、丁度別府に来ていた娘と一緒に老人ホームに向かった。

 担当の病院の方が待っていてくれ、説明を受けた後、3通の書類に住所や名前などの書き込みをした。そんな書類はともかく、容体はどうなのかが気になったのだが、その話は一番最後になった。担当の病院の看護師さんは、明るい調子で「今日はご飯も全部食べましたので、大丈夫ですよ。心配ないですよ」と、嬉しい報告をしてくれた。

 この施設は、面会をするのに部屋に入れてくれない。同室の方への配慮などからそのように決めているようだった。それでこれまで一度も、部屋まで行ったことがなかった。しかしこの日は担当の方が「会いたいでしょ」と言ってくれ部屋迄初めて連れていってくれた。ベッドのそばまで行って声をかけたのだが、寝返りも打てない感じで、職員の方が私たちの方へ体を向けてくれた。話をするのもきつそうだったので早々に引きあげた。看護師さんの説明とのギャップが気になった。安心させようとして、あのように言ってくれたのだろうかと娘と話しながら帰途についた。

 それから、メールが来なければいいがと思いつつ何日か過ごした。2,3日過ぎたので、少し肩の荷を下ろしかけたころ3通目のメールが来た。「熱がなかなか下がらず、今日、肺炎を併発しているという診断を受けました」というショックな内容だった。「高齢者」、「肺炎」という言葉の連想からは、最悪の事態を考えざるを得なくなった。

 急遽弟と出会い、これからのことを話し合った。不遜な話だが、万一の時のことを具体的に決めてお互いの了解事項にした。

 丁度娘のところは、新しい住まいに入り、新幼稚園に入園の時期だった。こういう時には、動きが取れんだろうなと思っていたのだが、どうやらそれは老婆心に終わった。

 母は、孫やひ孫のために、もうひと踏ん張りしてくれたのだろう。その後、妻と会いに行ったら、今度は、車椅子で面会室まで出てきてくれるまでになっていた。

 

 

 

さそり座の歌1024

 今日は久しぶりに早起きをして、妻を駅まで送った。学生時代からの長いお付き合いの友人が、すい臓がんとのことで、熊本までお見舞いに行くのを駅まで見送ったのだ。

 冬晴れの中、ふと、これは何らかの綾で逆もありうることだなと思いつつ帰路に着いた。妻の友人が遠くから訪ねてきてくれるのを迎えるというケースもあり得ない事ではない。

 なんだか愚痴のようであまり書きたくないのだが、この正月は、あちこち体に問題が出てしまった。

 仕事納めの日の夜だったのでよく覚えているのだが、この日の夜から変調をきたした。多分貧血なのだろうが、血の気が引いて気分が悪くなり立っていられなくなった。ひたすらうつらうつら眠ってはトイレに立つ。しかし立ち上がると気分が悪くなり、トイレに行くのも難儀で、何も食べられないまま、一日過ごした。

 大晦日から正月にかけて、腹具合が思わしくなかった。おいしそうな正月料理や鮨など並べてくれても全く手が出なかった。胃袋が拒否しているのが続いた。作ってもらった雑炊を少し食べて、家族の団らんに加わっていた。

 そうこうしているうちに、咳が出だした。特に寝ているときなど、ちょっと気温の変化があると咳が止まらない。長いこと激しく咳をしたせいか、左の肋骨のあたりが痛むようになった。咳をするたびにそこに痛みが走るので、そっと咳をしたいのだがそれもままならない。

 同時進行で、目に異常が出てきた。充血して目脂がたくさん出てきたのだ。これは眼科受診をした。結膜炎と言うことで目薬を2種類くれ、これはとてもよく効き三日ほどで完治した。

 咳の受診に行こうか行くまいかとしているうちに、少しずつ肋骨の痛みも引き、咳の出方も少なくなっていった。腹具合も改善し、ほとんど通常通り食べられるようにもなった。

幸い仕事が始まってからは、どこにも穴を開けないで済むほど体調が戻ってくれた。

 「すべて風邪のせいでの症状なのだろうか?」「いや、もう齢だから、今まで乗り越えていたことも、免疫力や自然治癒力が無くなって、いろいろ表に出てきたんだろう」などの、まわりの講釈の種も尽きないが、ともかく、これからも安泰とはいかない事だろう。あと何年残されているかわからないが、致命的な病気との出会いもいずれやってくる。先延ばしにしているエンディングノートもそろそろ必要かもしれない。

 

 

 


 

さそり座の歌1025

 先日Aさんより久しぶりに電話がかかってきた。多分1年ぶりぐらいではないかと思うが、定かではない。「私は指も曲がってしまったし、孫も使わないので、ギターをもらってくれませんか」という、嬉しいお願いの電話だった。

 そのギターは、息子が、あるコンクールで優勝し賞品にもらったものだった。それをぜひ譲ってほしいというAさんに買っていただき、Aさんはそのギターで長いことギターを楽しんでくれた。とても大事にしてくれ、事あるごとに自慢もしながら、30年ほどギターを続けたという貴重な方だった。

 その後、おしどり夫婦だったご主人が急に亡くなった。それで、80才をかなり過ぎている事もあり、一人で別府に住むのは心配ということで、長崎の娘さんのところに同居することになり、引っ越して行った。

「新聞を送ってくださいよ」という、お別れの時の約束に従って、毎月音楽院の新聞が出来たら、すぐに長崎へ郵送を続けた。すると、到着したその日の夜には、必ずお礼の電話がかかってきた。「別府がなつかしいわ、別府は良かった」とひとしきり思い出話をしたものだった。

 その期間がしばらく続いたのち、ぱったり電話がかからなくなった。具合でも悪いのかなと心配しながらも新聞を送っていたのだが、ある時娘さんから電話がかかってきた。

「申し訳ないですが、もう新聞を送るのはやめてくれませんか」というお願いだった。送られてきた新聞を見ると、「別府は良かった。別府に帰りたい」と興奮し、それをなだめるのに一苦労してしまうとのことだった。

 そういう言葉こそ出なかったが、痴呆が進んでいる様子が話の端々に出てきた。「知らない間に別府へ帰ると出かけたりして困るんです」とも訴えて、対応に苦労していることが伺えた。

「わかりました」と答えて、それ以後新聞送付リストからAさんを外した。長いお付き合いをしていただき、残酷な時間まで共にすることになった。その寂しさ、悲しさをかみしめて、Aさんとは疎遠になり長い時間が過ぎていた。

 それがひょっこり、いつもと変わりのないAさんの声が聞こえ、電話で話す事ができた。

「今入院しているんですが、今度別府に帰るとき、先生のところにギターを持って行きます」と約束してくれた。ギターはともかく、もう一度Aさんにお会いできれば嬉しい。

 

inserted by FC2 system