さそり座の歌 1022
ほんのちょっとした気まぐれな思い付きで、世界文学全集(中央公論社)に手を伸ばした。どういうわけか、心にどっしりと来る確かなものを求める気分になったのだ。
読み始めたのは、第16巻「罪と罰(ドストエフスキー・池田健太郎訳)」だった。有名な小説だが、これまで簡易版を少し見たぐらいで、きちんと読んだことはなかった。2段組みの小さな字の分厚い本を、最後まで読み通せる自信はなかった。しかし、読み始めると、すっかりはまってしまった。なんだか固くて重厚なイメージを持っていたのだが、なんというか軽いノリで、実にわかりやすい文体だった。
ナポレオンが正義のためにたくさんの人を殺すのが称えられる。ラスコーリニコフが、しらみのような金貸しの悪徳婆を殺して、その金を有効に使うのも正当化できる。複雑な思考過程があるのだが、だいたいそんなことで、殺人事件が起こる。
正当化できるはずの理論だったが、ラスコーリニコフの心は、常にその罪の意識におののき、日常生活が崩れていく。母や妹との関係もその背景があり、異常なものになっていく。
妹の許嫁の事、生真面目で世話好きな学友の事、最後までじわじわと追及する判事の事、妹に思いを寄せ衝動のままに生きる男の事…長い物語には、そんな様々な人物が絡み合い、もつれ合っていく。会話文体の長いセリフが、それぞれの気持ちを見事に表し、鮮やかな人間模様を描き出していた。まったく飽きることのない筋立てだった。
たくさんの登場人物の中で、特筆したいのは次の二人の女性だ。大酒飲みの父が死に、結核で苦しむ義母、たくさんの子供のいる修羅場。その赤貧を助けるためにソーニャは娼婦になった。部屋で同席するのさえ拒否される立場のソーニャ。しかし、神に身も心も捧げている女性に、ラスコーリニコフは、自分の犯した殺人の罪を告白するのだった。
また妹のドーニャは、横恋慕する男から危機一髪のところで逃がしてもらえる。賢くて誇り高いドーニャの清らかなやさしさに、男はついに手を出せないまま、失意のピストル自殺をする。
あくびの出る本や眠くなる映画の多い中で、読めば読むほど引きこまれて行った。そのうえ、ずっしりとしたものが読後感にある。
読み終えて奥付を見ると、昭和41年発行で、390円だった。
さそり座の歌 1023
公民館から演奏を頼まれて出かけた。演奏が終わって、片付けも済んだ頃、知らないおばあさんが寄ってきた。
「先生が若いころ間借りをしていた家の、餅が浜のSです」と言う。餅が浜の家、餅が浜の家…それが頭の中を一巡りして、ぱっと灯りがついた。
「ああ、あそこの・・・・」「ああ、それはまた、懐かしい」と話が噴き出てきた。
もう今から40年ほど前になる。印刷会社に通いながらギターを大分まで習いに行っていたころだった。レッスン時間に遅れないように、仕事が残業にならない事をいつも願っている毎日だった。
そんな、20代半ばの何の見通しもないころ、Sさんの2階に部屋を借りていたのだ。アパートとかではなく、普通の大きな民家の2階を貸間にしていた。おじいさんとおばあさんがいて、何かと世話をしてくれていた。おばあさんに何かお願いすると「いいぐれえじゃねー」となんでも叶えてくれたものだ。
或る時風邪で寝ていたら、おばあさんが卵酒を作ってきてくれた。かなり酒の味が強かったのだが、折角だからと飲み干したら、目が回ったのを覚えている。
その老夫婦に、娘さんがいたようだ。出会ったことがあるような、ないようなで記憶にないのだが、その方が、目の前に突然現れたのだ。当時のおばあさんは、もう亡くなっているという。(それはそうだ)そのおばあさんから聞いていたと言う、若いころの私の事をいろいろ教えてくれた。「新聞などに出たのを、あの方だといつも見ていたんですよ」と、なんだか嬉しそうに話してくれた。当時は勿論その方も若い娘だったのだろうが、今はおばあさんになっているので、なんだか浦島太郎気分だった。
振り返ってみれば、この家に住んだのは、私の人生の大きな転換点だった。たまたまここで暮らしているときに、縁あって妻と知り合い、結婚という流れになった。
この貸間を引き払い、市営団地を新居にして、結婚生活がスタートした。それから、あれよ、あれよと言う間に、ここまで来ている。30年、40年の時間の流れの速さをつくづく感じる。
あの古い貸間の窓に、守宮がよく這い上っていた。それを見つつギターを練習しながら、一日中ギターが練習できて、ギターで暮らせたらどんなにいいだろうと夢見ていた。
その原点を思い出させてもらえただけでも、Sさんとの出会いは、格別に嬉しいことだった。
さそり座の歌 1020
コーヒー断ちをして1カ月になる。今度は少し決心が固いので、少しは続きそうだが、先のことは、もちろんわからない。
こういう文章を書くとき、気合を入れてギターの練習するとき、いつもコーヒーを飲んでいた。雰囲気とか香りを味わうのでなく、いわば気付け薬として、コーヒーの覚せい作用にすがっていたのだ。
コーヒーを飲むと、血の巡りがよくなるのかどうか、理由はよくわからないのだが、気分が高揚して、頭が冴えてくる。集中力も出る。そんな確かな効能を自覚しているので、ついつい事あるごとにコーヒーを飲む。かなり飲み続けると効き目が薄くなるせいか、次第に飲む量も、回数も増えてくる。
いかんな。最近飲み過ぎだなと思いつつやめられない。そしてそのゴールは、いつも風邪をひく。咳や熱や痰に苦しめられて、やっぱりコーヒーを制限しなければと思う。しかし、いつしか、一杯が二杯になり、元の木阿弥になるのがこれまでの長い経過だった。
折しも、有名な歌手や、小学校の校長先生が覚せい剤の使用で摘発された。歌手は、次も期待に応えられるミリオンセラー曲を作ろうと、覚せい剤にすがったのだろうか?校長先生は、「薬を飲むと、仕事が10倍はかどり、音楽的なインスピレーションも湧いてくる」と供述していた。その効能で校歌を作ったりしたのだろう。
この二人は、立場上これがバレたら大変なことになると、自覚していたことだろう。やめようと努力したこともあったかも知れない。しかし、やめられなかった。自分で自分の滅亡への道を突き進んでいった。それが麻薬の恐ろしさなのか、人間の弱さなのかよくわからない。しかし、似たような事をコーヒーにすがっていた私には、二人の気持ちが少しは理解できる。
コーヒーを断って以来、いつも体の奥からコーヒーを求める声がする。コップ一杯のアイスコーヒーを思いきり飲めたら、どんなにいいだろうと思う。いつも眠い気がして、気力を奮い立たせるのに苦労する。この眠気をコーヒーですっきり出来ればと切に思う。それは、いわば、禁断症状ともいえるのかもしれない。
合奏練習の休憩、オペラ鑑賞会、会議…とコーヒーに出会う機会も多い。しかし、「申し訳ないけど」と断って、コーヒー断ちを続けている。何となくけだるい気分は抜けないのだが、この文も、6月号の音楽便りも、コーヒーなしで書けた。
いつか、眠い、眠い病を、コーヒーなしで克服したいものだ。
さそり座の歌 1021
生家を空き家にして、半年が過ぎた。一カ月に一度は風を通しに帰りたいとは思って居るのだが、なかなかままならない。行事や練習などがあると、ついつい先送りにしてしまう。期限が決まっていない事なので、気合を入れないと、往復3時間の運転が少々きつくもある。
時間を流しているうちに、最近田舎の従弟から3回電話があった。
「空き家対策費」というのがあり、年間千円払うことになっているらしい。消防団が見回りをしてくれるようなのだ。これは、立替払いを頼んだ。
また、町おこしでコスモスをたくさん植えることになったようだ。それで、「何も植えていない道路沿いの我が家の畑などに、花を植えていいか」という問い合わせだった。反対する理由もないので、どうぞ、どうぞと快諾した。
最後は、たまたま通りかかった時、水道のポンプのモーターがカラカラと音を立てているのに気づいてくれたようだ。熱を持つと危ないので、コンセントを抜いておいたという知らせだった。
たまに帰った時に、やはり電気や水道が必要だろうということで、解約しないままにしている。今度から、そのコンセントを差し込まないと水が出ないそうだ。
ガスやテレビの受信契約は、解約した。電気と電話は、そのままにしてある。さてこれをいつまで続けていくべきか、なかなか方針の決まらない事案だ。というのも、やはり今後この家をどうするかという、明確な指針がないからだ。
今、生家の在る市のほうで、空き家を登録すると、都会からの希望者を斡旋するというという取り組みをしてくれている。かなり成果も上がっているようだ。
しかしこれも簡単には飛びつけない。いろいろ考えると、難しいことがたくさん出てくる。例えば、家の中にある様々な品物(ほとんどゴミだろうが)、これをどうするかだ。別府に持ってくるスペースはないし、家の前で少しは焼いても、やはりかなりのものが残る。それに女々しいようだが、やはり、懐かしい生家に他人が住んでいて、もう入れないというのもなんだか寂しい。墓もある。
進むも地獄、引くも地獄。優柔不断の私には、決断のできない事だ。今のままずるずると、あてもなく流されていく事になるのだろう。