さそり座の歌 1012

 Tさんとは、もう30年余りのお付き合いになる。彼は、市役所で働いている頃にギターを始めて、退職後は田舎で農業をするようになったのだが、まだ今もギターを続けてくれている。

 その方から、ホームコンサートをするので来てほしいと頼まれた。秋晴れの中、地図を頼りに出かけた。郵便局や、病院などの目印を過ぎると、山の中へ入り込む細い道につながった。心配しながらも進むと地図は正確でちゃんとTさんの家に着いた。

 昔風の大きな民家で、仕切りの襖をはずし、二部屋をつないだところが会場だった。座布団を敷き詰つめた部屋に、近所の方が集まってきた。久しぶりの方もいるようで、いろいろ挨拶が長く続いた。

 Tさんのお母さんが、私のそばに来て話し相手をしてくれた。84歳とのことだが、しっかりしていて、Tさんのことを話した。「長男がようしてくれてな、柿が生れば柿を、蜜柑が出来れば蜜柑を持ってきてくれます。人の悪口は言いません」「それはお母さんの育て方が良かったんでしょう」と応じたのだが、なんだか眩しいような親子関係だった。

 しばらくしてからお母さんが別の部屋へ行った。なんとその部屋から、籐で出来た座椅子を抱えてきて、私にそれに座れと言うのだ。敬老の順番から言えば、84歳のお母さんが座るべきところだが、頑として私に座らせる。恐縮しながら、待ち時間は座椅子で過ごせて、正座に慣れてない私には、とても有り難かった。

 演奏会の終了後は、応接机を二つ並べて、みんなで打ち上げをした。柿、蜜柑、梨などの果物。そして蒸した芋や菓子などが机いっぱいに並んだ。そして一番珍しかったのは、お客さんの1人が「猪が獲れましたので」と、その肉の煮つけを皿に山盛りし提供してくれたことだ。もう何十年ぶりかで、猪の肉を食べた。

 打ち上げでは、罠にかかった猪の血を抜く話し、ヤギの赤ちゃんの生まれたときのことなど、普段では聞けない興味深い話題が続いた。

 ホワイトカラーの公務員から、Tさんは見事に転身していた。米を作り(時々いただく)、芋を作り、野菜をいろいろ植え、山羊を飼い、顔を赤銅色に焼いて、立派な農民になったTさん。田舎の家を守り、親と一緒に住み、先祖伝来の田畑も守り続けている。自分の身に比べて、なんと理想的な老後だろうと、感嘆するばかりだ。

さそり座の歌 1013 

 島倉千代子さんが亡くなった。「人生いろいろ」のヒット曲同様、その生涯には、様々な喜びや苦難があったようだ。ニュースなどでたくさん報道されている。しかし、いつも歌と共に生きる事が出来、激動の生涯を立派に全うしたのではないかと思う。今はただ、ご苦労様でしたと言うほかない。

 私だけの思いかもしれないが、島倉さんは、手の届かないスターという気がしなかった。実際は、歌謡界の女王とも言われるので、そうではないのだろうが、私にはなんだか、親戚のちょっときれいなおばさんが歌っているような気がしていた。庶民的というのが当たっているかどうかわからないが、私にとっては親愛の持てる近さだった。

「♪久しぶりに手を引いて、親子で歩けるうれしさに」というフレーズが、私を涙ぐませる。とは言え、これが人の世の暮らしの中の不変の叙情なのか、それとも安っぽい感傷なのか、実はよくわからない。しかし、そんなことはどうでもいいのだ。ともかく、あの切れ切れの声は、じわっと心の奥に沁みてくるものがあった。

 最近ほとんど歌謡曲を聴くことがないので、余り大きな事は言えないのだが、少なくとも私個人にとっては、ぐっと胸が詰まり目頭が熱くなる曲は、この島倉さんの曲よりほかに知らない。

 最近、鬼畜かと疑うような、乳幼児への虐待が続発している。また、高齢者への悲惨な仕打ちもある。それぞれの背景には、言い尽くせぬどうしようない現実もあるのだろうが、その対極に「♪親子で歩けるうれしさに」がある気がする。照れや見栄、打算や虚飾などではない思いが、そこには歌われている。素直で真っ直ぐな親子のふれあいが、とてもまぶしい。

「♪小さい頃が浮かんできますよ」と語り合うことの出来る親子関係もまた、とても貴重なことに思える。そこには、母親に苦労しながら育ててもらえたからこそ、今の私があるという、感謝の気持ちへ通じるものがある。

「♪達者で長生きするように」と、並んで手を合わせる姿の、なんと温かいことか。

 それら、島倉さんの描いてくれた歌の世界は、失ってしまったものへの愛惜でしかないのだろうか?

 87歳の私の母親は、もうトイレまで歩くのがやっとのことになった。手を引いて東京見物などはもうあり得ない。せめて、小さい頃の話でもたくさんしたいものだ。

 

 

さそり座の歌 1014

 平成25年12月17日は、わが竹内家にとって特別な日になった。この日は、田舎に住む母の88回目の誕生日だったのだが、ふとした思い付きの行事と、別の偶然も重なって、歴史的な日になった。

 ある夜もう布団に入ってから、ふと今度の母の誕生日は米寿だなと考えた。起きだしてカレンダーを見ると火曜日で母のデイサービスの日になっていた。この日コンサートをしたらと頭の中で火花が散った。

 まず息子にメールをした。この日は福岡での仕事が入っていたので、変更できるかどうかやってみるという返信だった。しばらく連絡がなかったので、無理かもと思っていたところ、「変更できた」知らせが来て、計画がスタートすることになった。

 佐賀に嫁いだ娘も、会場にピアノがないならキーボードを持って帰るということになった。フルートをしている長男の嫁も日程の調整ができ、演奏者はそろった。

 母のお世話をしてくれているケアマネージャーさんを通して、デイサービスの施設へのお願いもでき「竹内ファミリークリスマスコンサート」が実現の運びとなった。

 丁度その頃、かなり前に申し込んでいた養護老人ホームから、母が入所できるという知らせがあった。一人で家に居てもらうのも心配なので、これ幸いと入所することにした。入所の時は、われわれが付き添って行き、書類など書く必要があるということで、日程を調整したのだが、私も年末で行事が立て込んでいたので、そのコンサートが終わってから入所ということになった。

 コンサートの日は、車2台に6人が分乗して出かけた。母の前に、子、孫、曾孫が一度に揃うのは初めてのことだった。コンサート会場には、デイサービスを受けている皆さんをはじめ、母の世話をしてくれているケアマネさん他、見覚えのあるヘルパーさんもたくさん来てくれていた。

 それぞれがマイクを持ち替えて、話をしながら演奏した。娘は、毎年年末に田舎へ行きおばあちゃんと餅つきをしたことを話した。

 最後にみんなで歌いましょうということで、「ふるさと」を取り上げた。その時私が終わりの挨拶をしたのだが、「故郷の田舎の家に、母が居なくなります」と話そうかと思ったのだが、不意にこれを話すと泣いてしまいそうだなと取りやめた。家から見える「来浦富士」を見ると、ふるさとに帰った気がすると話したあと、みんなで3番まで歌った。歌の間に、3歳の孫と妻が来場者の皆さんにささやかなプレゼントを配った。

 子や孫の演奏が繰り広げられ、帰りは住み慣れた家でなく、老人ホームにということになった母にとって、この日は夢まぼろしの日になったことだろう。変化についていければと、心配にもなっている。

 

さそり座の歌 1015 

 母が施設に入って一か月ほどになる。大きな安心感と引き換えなのだろうが、心のどこかに寂しい空洞ができている。施設に行けばいつでも会えるし、話もできる。しかし何かが違うのだ。

 これまでは、しばらくぶりに母と話をしたあと、実家を離れるとき、母はいつも外までゆっくり出てきて手を振ってくれた。家の前の道を車が本通りまで出て曲がっても、まだ手を振っているので、いつもそこで車を止めてこちらも手を振ったものだ。その母とふるさとを失った感傷の空洞なのだろうか。

 年末、空き家になった生家に、せめて餅だけでも飾ろうと帰った。妻が裏庭にある墓にも水仙を飾ってくれた。また部屋や仏壇などの掃除をした。そして冷蔵庫の中の整理をして空にし、電源コードを抜いて街に帰ってきた。生家は、初めて誰もいない正月を迎えた。

 正月三日に、妻、息子、そして私の3人で、施設の母に新年のあいさつに出かけた。ここは二人部屋なので、母のベッドのある部屋には入れない。受付でお願いをして、母の出てくるのを面会室で待つ。

 手押し車を押して、ヘルパーさんと一緒に面会室に母が入ってくるまで、しばらく時間がかかった。面会室に入ってきて椅子に座り、私たちの顔を見ると、母の眼から涙がこぼれてきた。しきりに涙をぬぐってしばらく話ができなかった。

 しかし話してみると、話の受け答えも機敏で、顔色もとてもよく、私たちを安心させてくれた。家に独りでいた時よりも、人との接触が多いせいか、生き生きしている感じだった。散髪もしてくれていて髪もきれいに整えられていた。3人が代わる代わるいろいろ問いかけるのに、嬉しそうに相槌を打っていた。

 田舎の家では、ヘルパーさんが日に2度来てくれる時以外は、黙ってひたすらテレビを見ていた。あの暮らしより、ここのほうが母のためになっていると思いたい。

 正月休みの終わりの7日に田舎へ帰り、近所の隣保班6軒に挨拶をしに行った。田舎へ帰っても近所を回ることはないので、ほとんど知らない方ばかりだった。「**の息子です」と玄関で挨拶すると、「さびしゅうなるけど、独りでおるより、そのほうが安心じゃはなあ」と皆さん笑顔で対応してくれた。

 地区の班長さんに、3月までの区費を払い、4月からの名簿から外してもらうことにした。これが、竹内家が完全に生家を離れる最後の手続きだったのかもしれない。

 正月に施設を訪れて、母を廊下の奥に送った時、その廊下の壁に書初めが10枚ほど貼ってあるのに気付いた。母の書初めは「初夢」と書いてあった。

 

 

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