さそり座の歌 1007

 少し体に異常を感じて、「変だな、おかしいな」と思いつつ日を過ごしていた。しかし、30周年の大きな行事が終わるまではと、不安を持ちながらも、そのことに触れないでいた。

 こめかみの辺りに、水ぶくれのような肌色のふくらみが出来ていた。記憶にないが、もうそれは顔にあるのが当たり前のことで、おそらく10年以上も前からあったと思う。これまではそれがあっても、黒子でもあるような感じで気にもならなかったし、全く変化もしなかった。

 ところが最近、そのあたりがむず痒く、何だかいつも神経がそこに行くようになった。そうこうしている内に、その部分がだんだん膨らんできた。固い芯の様な物があり、小さな岩状の塊が3つほど吹き出てきた。なんかやばいな。もしかして・・・と悪い不安が広がっていた。

 4月29日に30周年記念の春の音楽祭が終わった。次の日が休みだったので、待ってましたと皮膚科に出かけた。

 AからFまで診察室が丸くつながっていて、医者はその中心で、次々部屋を回ると言うシステムのようだった。「診察室Cにお入りください」と案内する放送があり、私は恐る恐るドアを開けた。
 看護師さんの下調べがあり、それからすぐ先生が入ってきた。

 「加齢によってできる、よくある症状ですね。」「良性ですから、何も心配要りません」

 ではと、防虫スプレーのようなのを手に持って、「液体窒素です。これをかけると、ぽろっと取れます」。「プシュウー、シュー」。「もう一度かけますので、10日後にまた来てください」

 たぶん、その間約2分。実にスムーズと言うか、あっけない幕切れだった。
「うーん」と言って首をひねったりしたら、背筋が凍る。「これは医大に行ってきちんと調べたほうがいいですね」とか言われるのではないかと、今となれば笑い話のような妄想も膨らんでいた。外は雨だったが、無罪放免の心の中は快晴だった。

 それにしても、「よくある症状」と医者が言うのは、安心感を与えてくれる。治療法もあり、これまでたくさん解決してきたのだろうと、心から信頼できる。それなら、もう治るのは間違いないと思わせてくれるいい言葉だと思う。

 医者のひとことに、いつまでも救われていたいものだ。
さそり座の歌 1008

 「もっと脳が活性化する100日間パズル」という本の問題を解くのに、最近どっぷりとはまっている。東北大学教授の監修した本で、7種類の問題が日替わりで出てきて、それをやることで、前頭前野が活性化するという触れ込みの本だ。

 2ヶ月前ぐらいだったか、妻がこの本を買ってきて、暇があれば鉛筆で何か書き込んでいた。余り熱心なので、ちょっと覗いてみたら、「一緒にやろうよ」と言う。だいたいそういうゲームは嫌いなので、適当に逃げていたのだが、妻がどう勘違いしたか、それと同じ本を買ってきた。

 まあ、せっかく買ってきたのだからもったいないと思って、しぶしぶ取り組んでみたのだが、これがなかなか面白いのだ。始めは、マス目の中に数字が書いてあるのを見ても、何をどうすればいいのか全く分からなかった。しかし、説明書を読めばすぐ出来るようになった。

 ナンプレ、漢字ナンクロ、不等号ナンプレ、漢字クロス、間違い探し、漢字ドリルの7種類の問題の中で、ナンプレと不等号ナンプレが、私には一番楽しい。迷路のような数字の列が、だんだん順番に揃ってきて、ぴたっとはまった時は、「やったあ」と手を叩きたくなる。しかしちょっとした不注意でミスをしていると、途中でどうにもこうにも、進めなくなってしまう。半端な修正は利かないので、全部消しゴムで消して、また始めから注意深くやりかえるのが、結局は早くなる。3,4度消すこともあるが、そんなときほど完成したときは、また格別に嬉しい。

 かなり以前からだが、顎の下まで出てきていることが、どうしても口に出てこないことがある。「物忘れ外来」と言うのがあるらしいのだが、いずれそこを受診するような羽目になるのではと、不安を持って暮らしている。 そんな折も折り、脳の活性化というのは魅力的なフレーズだった。

 最近、ギター連盟の80数名の住所録を作った。原稿と名前、住所、電話番号を睨みながら間違いがないかさがしていると、「あ、この気分だ」と、活性化本の取り組みを思い出した。注意力や集中力などが同じ働きなのが実感できた。少しは訓練が進んでいるのかもしれない。

 食事が出来るのを待つ間、少しずつ毎日楽しくこの本に取り組みながら、しかも呆け防止になれば、こんな有り難いことはない。
 
さそり座の歌 1009

 5月の終りに、87歳になる母の介護認定更新があったので、休みを取って立ち会った。市役所の担当の方がやってきて、母にこまごまとした質問をし、動作をさせて、介護度がどのあたりにあるか決めるための時間をとったのだ。

 その質問の最中は、私と、普段お世話してくれているヘルパーさんは黙って聞いている。母の答えを聞いていると、そのおかしな返答に最初は笑っていたのだが、だんだん、悲しくなって行った。「今、季節は何ですか?」と言う問いに、「よう分からん、これから寒くなるから、秋かなあ」と言うのを聞いて、涙が出そうになった。

 すべての質問が終わった後、母をベッドのある部屋に戻して、別室で、主にヘルパーさんから、母の実際の様子を聞いた。母の回答はいろいろ訂正があった。

 終わった後、応援に来てくれていた従妹とこれからのことを話した。しかし妙案があるわけでもなく、いろんな可能性を羅列して、迷いが深まるばかりだった。最終的にはもちろん、この私が決断し実行するしかないことなのだった。

 いつまでもこの状態が続いてほしいと思う。電話をすれば母の声が聞こえ、帰郷すれば母が「お帰り」と迎えてくれる。何十年もつづいたこのふるさとへの構図が、未来永劫続いてほしいと思う。しかし、それはもちろん叶わないことだ。もう、残り時間も少ない。

 時折、言い知れぬ不安に襲われる。今、母に、何の相談もしていないし、頼ろうとも思わない。しかし、万一のことを思うと、私は幼い子供になる。「かあちゃん」と寄りかかれないさびしさが、私を締め付ける。

 還暦をとっくに過ぎた、いいおじさんが、自分の上に何もないことに、恐れおののくのだ。私はいっぱしの大人として、これからのことを乗り越えていけるのだろうか。優柔不断のまま運命に翻弄され、行き当たりばったりに足掻いていけば、どうにかなるのだろうか。どこにあるのかも知らない、田や畑、山林など、今、曲がりなりにも、母がそれをすべて背負ってくれている。ふるさとは、母そのものなのだ。

 音楽院で出している新聞をいつも母に送っている。時折、今月の何日は、**コンサートがあるなと言ってくれる。今回は、帰宅した時に360号の30周年記念号を届けた。玄関で新聞を読んでいると、メガネをかけた母が、記念号を読みながら、しきりに涙を拭いていた。

さそり座の歌 1010

 今年の暑さは尋常ではない。我々でもうんざりして気力が萎えるのだから、87歳の母には相当応えるだろうと心配になっていた。テレビや新聞では、熱中症で搬送の数字を、にぎにぎしく報道していたが、ついにその現実が我が家にもやってきた。

 ケアマネさんから「38度の熱が出ていて、熱中症の診断がありました。入院してもらったほうがいいと思うので、帰ってきてくれませんか」という電話があったのだ。その日は、どうしてもはずせない仕事があったので、近くに住む従妹に様子を見に行ってもらった。幸い余り心配なそうな連絡があったので、次の日の早朝に家に帰った。

 その日母と一緒に、かかりつけの医者に行くころは、前日の点滴が効いたのか、熱も下がっていた。それでも心配なので、「どこかに入院させてくれませんか」と頼んでみた。「今取り立てて、治療するところもないし、入院と言うわけには行かないんですよ」と、嬉しいような、困ったような返事があった。

 それから少し話をしていく中で、「クーラーはありますか」と言う医者の問いかけがあった。「いや、クーラーはないんです」と言うと、「それはちょっと・・」と絶句する感じだった。

 町の暮らしでは、クーラーは当たり前の常備品になっている。しかし、我が家では、山から吹き降ろす風を、窓を開けて家に通せば、それで事足りる暮らしを、何十年もしてきていた。しかし、もうそんな話しは、時代遅れで通用しないことなのだろう。

 何とかならないかと、医者とケアマネさんの相談もあり、近くにある老人ホームのショートステイの空きがひとつあるのを探してくれた。一旦家に帰り、着替えなどの準備をしていると、ホームから迎えの車が来た。親切な対応で、母も急転回の変化にもかかわらず、素直に付いて行ってくれた。後でホームに寄って見ると、車椅子に乗って食堂でたくさんの入所の方と一緒に、夕食を食べていた。お別れに手を振ると、箸を置いて微笑みながら手を振ってくれた。

 その日から連続の猛暑日が続いている。もし、ケアマネさんなどの尽力がなく、そのまま家にいたら、命にかかわっていたかもしれないと思う。お世話してくれた方は、「命の恩人」という気持ちを持ちながら、この酷暑の日々を過ごしている。帰ってくる日のために、クーラー工事の発注をした。

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