さそり座の歌 1003
先日、政府の偉い方が、終末医療について発言していた。その後、「公の場で発言したことは適当でないので撤回する」と述べたそうだが、私的な場ではその本音を遠慮なく語っているのだろう。
その発言を要約すれば、「国の財政が苦しいので、年寄りは金をかけずに早く死んでくれ」ということのようだ。「さっさと死ねるように」というのは、ずいぶん刺激的で乱暴な押し付けと言える。
死生観はそれぞれの個人が選択するもので、押し付けられるものではないはずだ。この偉い方のように遺言で一切の延命治療お断りという方も居れば、一分一秒でも生きていたい、または生かしてあげたいという願いもある。
その死生観を、国の経済と天秤にかけていいものだろうか?それが拡大解釈されれば、お年寄りをはじめ、障害者や生活保護家庭などの弱者は、国のお荷物として冷遇されかねないとも言える。膨大な国債の行き場は、そういうところではないと、偉い方は教えてくれたのかもしれない。
もうひとつ気になるのは、「政府の金で(医療を)やってもらっていると思うと寝覚めが悪い」という発言だ。これはどういうことなのだろう。何が言いたいのだろう。
30年も、40年も真面目に働いて、税金を納めてきたお年より。その方たちが、「老人漂流社会」と言われるように、いわば死に場所を求めて寂しく漂流している状況がある。働くことで社会に貢献し、税金を納めてこの国を支えてきた方々に対して、「役に立たなくなったら早く死ね」と偉い方は言うのだ。
しかも、医療や、老人介護や、生活保護などの生活弱者が、生きる手助けを国から受けることは、「寝覚めが悪い」はずだと、この偉い方は思っている。そんなことに国の金を使うより、経済発展のために有効な国債の使い道がある。「寝覚めが悪い」ような事はさっさっと止めろと言うのだ。
当たり前の話だが、消費税、住民税、所得税、健康保険税等の様々な税金によってこの国は成り立っているはずだ。決してこの偉い方のポケットマネーをいただいている訳ではない。この方から、「過分な援助をありがたく思え」と言われる筋合いはないはずだ。
国とは何だろう。国民とは何だろうと、今回の発言によって深く考えさせられた。
さそり座の歌 1005
音楽院の毎月の行事に「オペラ鑑賞講座」がある。今月は、モーツアルトの「魔笛」を鑑賞した。人気のある演目で、もうこれまでの長い間には3,4回観ている。何回観ても、あの夜の女王のアリアは壮絶で楽しめる。
3日ほど前に、近くのホール主催の「魔笛」公演があった。それと続けて観たせいもあり、その違いが鮮明だった。原作は、夜の女王やムーア人のモノスタトスという、いわば悪役を演じた登場人物は、最後に雷に打たれて死んでしまうという設定だ。
しかし、新作公演では、制作者の脚色で「許しの物語」と称して、最後には夜の女王などすべての出演者が許されて、ハッピーエンドで終わるように作られていた。愛と癒しのザラストロの対応なら、それもありかもしれないとも思う。
話は変わるが、近く私の開くギター演奏会で、ディズニーの曲を演奏することにしている。それで、音楽が、アニメのどの場面でどのように使われているのかきちんと知るために、DVDを借りてきて全部観た。
それで感じたことは、ずいぶん悪役がはっきりしているなということだった。シンデレラの継母やその娘たち、ライオンキングの叔父さんやハイエナたち、白雪姫の継母の魔女…と、実に憎々しげに作られている。それだけに主役の幸せや成功が、大喜びできるようになっている。
ディズニーというと、何だかほんわかしたファンタジーというイメージだったが、今回改めて鑑賞してみて、そのどぎつい悪役に少なからず驚いた。ハイエナ後援会(そんなのがあるかな?)から、厳しい苦情が寄せられそうなほど、悪役のレッテルを貼り付けていた。
詳しいいきさつはよく知らないが、赤頭巾ちゃんでの狼が、残酷すぎると苦情が出たと記憶している。子供の教育に良くないという主張ではなかったかと思う。
今回の「許しの物語」の魔笛の傾向が、いろんな場面で私の精神の中に沁みこんでいた様な気がする。どの悪役にも由緒いわれがあり、それぞれが正当化できるというケースが、周りに溢れているのではないかと思う。許しや優しさも勿論大切なことだし、それはそれで感動もある。
しかし、今回ディズニー作品を観て、そのすっきりした善悪の切り口が、とても新鮮に思えた。その完全な対比は、それぞれの役を明確に存在させていた。