さそり座の歌 1002 

 今日は12月22日。レッスンが終わってのお別れの合言葉は「良いお年を」になった。週に一度のレッスンなので、今日の方から、今年最後のレッスンになる。この挨拶が、28日の金曜日まで続いて、すべての仕事が終了という運びだ。

 もう、1年が終わる。ありふれた気持ちだが、やはりこの1年の早さには、立ちすくんでしまいそうだ。何か忘れ物がありそうな気がする。これでいいのかなと不安にもなる。

 日が経つのが早いのは、暮らしの中に新鮮な変化がないからだそうだ。子どもの頃は、見るもの聞くものが珍しく、それらに気持ちが奪われていると、一年がとても長くなるらしい。

 しかし還暦を大きく過ぎると、昨年の、またその前の年のビデオテープを再生しているような気がすることがある。春になれば、秋になればと恒例になっている行事が、あっけなく過ぎていく。贅沢なことを言うのだが、この恒例というマンネリの中で、モチベーションをいかにあげていくかは、難しい問題だ。

 しかしながら、元気で、しかも一緒に力を合わせてくれる仲間がいてくれてこそ、恒例行事が成り立つ。その持続は素晴らしいことに違いないし、ありがたいことでもある。病気になったりして、この恒例から離れたときに、あの頃はと、しみじみ思うことだろう。

 友人の奥さんが、62歳で2月に亡くなった。くも膜下出血で、たった3日の入院で別れることになったので、いつまでも信じられなかったと友人が話していた。

 普段はとても元気な方で、サッカーが好きだったそうだ。年間シートを買っていたのだが、1試合も見ることが出来なかったという。友人は、奥さんの遺影を持ってサッカーを見せに行ったそうだ。

 年間シートを買ったとき、まさか1試合も見ることが出来なくなるとは、ご本人も、周りの人も誰も思わなかったことだろう。

 4月は春の音楽祭、7月は連盟定演、12月は魅惑のギターステージ…他いろいろと、私も年間シートをすでに買っている。毎年「恒例」の年間シートを買い、何とかここまできた。しかし、いつかこれが途切れるときが必ず来る。間違いなく来る。

 それを思えば、マンネリだとか、モチベーションがあがらないだとかと、御託を並べることは出来ないはずだ。いつも、いつも、これが最後かもしれないと、思わねばならない年齢なのだ。心して1年を終えよう。
 
去年今年貫くはずの日々のこと 幸一
 

さそり座の歌 1003

 先日、政府の偉い方が、終末医療について発言していた。その後、「公の場で発言したことは適当でないので撤回する」と述べたそうだが、私的な場ではその本音を遠慮なく語っているのだろう。

 その発言を要約すれば、「国の財政が苦しいので、年寄りは金をかけずに早く死んでくれ」ということのようだ。「さっさと死ねるように」というのは、ずいぶん刺激的で乱暴な押し付けと言える。
 死生観はそれぞれの個人が選択するもので、押し付けられるものではないはずだ。この偉い方のように遺言で一切の延命治療お断りという方も居れば、一分一秒でも生きていたい、または生かしてあげたいという願いもある。
 
 その死生観を、国の経済と天秤にかけていいものだろうか?それが拡大解釈されれば、お年寄りをはじめ、障害者や生活保護家庭などの弱者は、国のお荷物として冷遇されかねないとも言える。膨大な国債の行き場は、そういうところではないと、偉い方は教えてくれたのかもしれない。

 もうひとつ気になるのは、「政府の金で(医療を)やってもらっていると思うと寝覚めが悪い」という発言だ。これはどういうことなのだろう。何が言いたいのだろう。

 30年も、40年も真面目に働いて、税金を納めてきたお年より。その方たちが、「老人漂流社会」と言われるように、いわば死に場所を求めて寂しく漂流している状況がある。働くことで社会に貢献し、税金を納めてこの国を支えてきた方々に対して、「役に立たなくなったら早く死ね」と偉い方は言うのだ。

 しかも、医療や、老人介護や、生活保護などの生活弱者が、生きる手助けを国から受けることは、「寝覚めが悪い」はずだと、この偉い方は思っている。そんなことに国の金を使うより、経済発展のために有効な国債の使い道がある。「寝覚めが悪い」ような事はさっさっと止めろと言うのだ。

 当たり前の話だが、消費税、住民税、所得税、健康保険税等の様々な税金によってこの国は成り立っているはずだ。決してこの偉い方のポケットマネーをいただいている訳ではない。この方から、「過分な援助をありがたく思え」と言われる筋合いはないはずだ。

 国とは何だろう。国民とは何だろうと、今回の発言によって深く考えさせられた。

さそり座の歌 1004 

 同級生が、ギターを習いに来てくれている。今日、3月分の月謝を納めてくれた。領収印が1年分埋まったので、新しい月謝袋を渡した。

 「よう頑張ったなあ。もう丸3年続いたんや。石の上にも3年、すごいなあ」。そう言って称えると、彼は、大きな体を小さくしながら恥ずかしそうに「いい趣味ができたよ」と嬉しそうに笑った。

 50年ほど前の中学生のとき、彼と同級生だった。豪放磊落で、柔道の強いスポーツマンだった。卒業後は、警察官になったと言ううわさを聞いたが、縁は切れていた。

 ところが3年前の3月、「仕事を辞めたら、ギターを教えてもらいたいんやけど」と電話があった。勿論、その申し出は喜んで受けた。しかしながら、体育会系の彼に、ギターが続けられるのだろうかと、半分は不安も持った。

 3年前の四月から、彼は新しいスタートを切った。音符も読めず、リズム感もよくなかった。心配もしたが、彼はこつこつと粘り強く、次々にやってくる壁を乗り越えて行った。最初は、奥さんに鉛筆で音符の読み方を書いてもらっていたのだが、今は振り仮名なしで音符がらくらく読めるようになった。

 彼を見ていてよく思うのは、心の柔軟性ということだ。構えて反発するということがなく、こちらのお願いを素直に受け止めてくれる。きちんと注意点を楽譜にメモし、それをマスターしようとした努力のあとを、いつも聞かせてもらえて感心する。

 彼は、警察官として最高位の署長まで進み、いわば、功成り名を遂げた仕事人生だった。柔道の試合では、気迫を前面に出し、他を圧倒する勢いがあった。そういう彼が、なぜか柔らかいのだ。不思議な気がする。彼は、何も知らないという恥ずかしさを乗り越え、同級生に頭を下げた。そして今、日々の暮らしの中に、確かな趣味の時間を獲得している。

 私はといえば、自分の妙なプライドを、時折感じることがある。チンピラやくざの言葉ではないが、「この界わいでは、ちったあ名を知られたこの俺を、馬鹿にするのか」という気分になることもある。 

 そんな不遜な自分を思うにつけ、自分を空っぽにして、人に頭を下げるということが、いかに難しいかを思う。彼の柔らかさがまぶしい。
何か新しいことに取り組みたいと思いつつ、無為に日が過ぎている。彼の柔らかさを学ばなければ。

さそり座の歌 1005

 音楽院の毎月の行事に「オペラ鑑賞講座」がある。今月は、モーツアルトの「魔笛」を鑑賞した。人気のある演目で、もうこれまでの長い間には3,4回観ている。何回観ても、あの夜の女王のアリアは壮絶で楽しめる。

 3日ほど前に、近くのホール主催の「魔笛」公演があった。それと続けて観たせいもあり、その違いが鮮明だった。原作は、夜の女王やムーア人のモノスタトスという、いわば悪役を演じた登場人物は、最後に雷に打たれて死んでしまうという設定だ。

 しかし、新作公演では、制作者の脚色で「許しの物語」と称して、最後には夜の女王などすべての出演者が許されて、ハッピーエンドで終わるように作られていた。愛と癒しのザラストロの対応なら、それもありかもしれないとも思う。

 話は変わるが、近く私の開くギター演奏会で、ディズニーの曲を演奏することにしている。それで、音楽が、アニメのどの場面でどのように使われているのかきちんと知るために、DVDを借りてきて全部観た。

 それで感じたことは、ずいぶん悪役がはっきりしているなということだった。シンデレラの継母やその娘たち、ライオンキングの叔父さんやハイエナたち、白雪姫の継母の魔女…と、実に憎々しげに作られている。それだけに主役の幸せや成功が、大喜びできるようになっている。

 ディズニーというと、何だかほんわかしたファンタジーというイメージだったが、今回改めて鑑賞してみて、そのどぎつい悪役に少なからず驚いた。ハイエナ後援会(そんなのがあるかな?)から、厳しい苦情が寄せられそうなほど、悪役のレッテルを貼り付けていた。

 詳しいいきさつはよく知らないが、赤頭巾ちゃんでの狼が、残酷すぎると苦情が出たと記憶している。子供の教育に良くないという主張ではなかったかと思う。

 今回の「許しの物語」の魔笛の傾向が、いろんな場面で私の精神の中に沁みこんでいた様な気がする。どの悪役にも由緒いわれがあり、それぞれが正当化できるというケースが、周りに溢れているのではないかと思う。許しや優しさも勿論大切なことだし、それはそれで感動もある。

 しかし、今回ディズニー作品を観て、そのすっきりした善悪の切り口が、とても新鮮に思えた。その完全な対比は、それぞれの役を明確に存在させていた。

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